高津物語 連載第八三八回 「大山阿夫利山」
大山は標高一二五三メートルで、決して高くない。
『万葉集』東歌に
「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る 妹が名呼びて吾を哭し泣くな」
と詠われた「相模峰の雄峰」とは、大山阿夫利山のこと。
江戸期天保年間に編纂の『新編相模風土記稿』に、
「一は雨降山と呼び、又阿部利山或は大福山、如意山等の名あり、当国緒山の中、最も高嶺なれば大山と称せるなり」
「頂上は常に雲霧深く、ややもすれば大いに雲起り、忽雨を降す。此雨山中のみにして、他に及ばず、故に土人私雨と称す。雨降山の名は是に因か」と記される。
が、驚くのは、大山の山頂からは縄文時代後期・晩期の土器片、土師器坏等が出土されていて、古くから大山を登る人が多かった。
伊勢原市教育委員会から頂いた小・中学校社会科歴史読本『いせはらのむかし』(旧石器時代〜古墳時代)資料によると、
「神の宿る場所として、古くから人々を引き付け、伊勢原市内で見付かる縄文時代の遺跡は、大山が良く見える場所に多く集中し、前方の山等によって大山の姿がさえぎられてしまう場所には、少ないという結果が出たそうです。」とある。
事実、明治期の大山山頂付近の発掘調査で発見された経塚壺と称される常滑焼の壺があり、昭和三十五年の発掘調査でも、北宋銭(十一世紀)や小型の銅製五重塔等が出土したため、現在は神奈川県立埋蔵文化財センターに所蔵されている。
〽夜山で盆をすっぱり
切り払ったる納め太刀
諸(しょ)願(がん)定宿(じょうやど) 子安まで下りて五六の蚊帳の内」
盆の夜に大山参詣をした後に、東海道子安(現横浜市神奈川区)迄戻ってきて、蚊帳に入って、さらりと謳わる日本舞踊の「山帰り」は、浴衣、脚絆に半纏と云ういなせな姿で、さらりと歌われもし、踊られた。
踊りの名手であった三代目坂東三津五郎が作った。 文政六年(一八二三)江戸森田座で上演された、五段続きの舞踊「法花姿色同」の一つ、「山帰強桔梗」が正式名である。
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