高津物語 連載第八八五回 「上作延の赤城神社」
溝ノ口の古刹「宗隆寺」が赤城大明神を信奉して、日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合、調和させた神仏習合の信仰が「本地垂迹説」といわれる神仏混合の信仰であった。
そのルーツを辿ってみると、鎌倉時代末期から戦国時代に掛けて、或る者は山伏となり、あるいは傭兵が伝道する「無頼の輩」が多かった様だ。
『徒然草』第百十五段の「宿河原というところにてぼろぼろ多く集まりて…」の「宿河原」も川崎市多摩区宿河原の地を指しているというのが、今日の学会の定説である(「ぼろぼろの碑」は現在、川崎街道と二ヶ領用水が交差する高架下、二ヶ領用水沿いに立つ)。
この様に織田信長・豊臣秀吉時代迄に、確固とした擁護者を持てなかった者は徳川家康の天下平定と共に当然のことながら生活を確保することが出来なくなり止むを得ず、彼らは「無頼渡世の徒」等と、自から称することで、威張って「博徒」となっていった。
これが「国定忠治」に代表される日本侠客最初のデビューとなったものだ。
「もし彼らが単独であったら、たとい徳川の平定があろうとも、博徒にはならずとも済ませたかもしれない。もう少しは、何とか身の振り方が付いたであろう。けれども、彼らには多くの仲間があった。
彼らは先ずそれらの仲間、子分の処置に困った。ここで、親分・子分のことを一言述べておくが、彼らの親分・子分は農村の制度から取ったのだと思われる。
農村には、親分筋・子分筋というのが幾軒もある」(折口信夫『ごろつきの話』)。
尤も、彼ら「無頼の徒」が徒党を組まずに、一人だけの博徒であったと仮定したならば、時代が下って徳川時代であったにしても、所謂「侠客」にならなかっただろう。
頼朝が夢に見た上州赤城山の霊夢は、天魔(第六天)の他化自在天―多くの眷属(けんぞく)を率いて仏道の妨げをする第六天魔王の仕業…
でも何で「延命寺」という形で上作延に残るのか?
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