高津区版 掲載号:2016年10月28日号 エリアトップへ

高津物語 連載第九六八回 「戦時中の高津小学校」

掲載号:2016年10月28日号

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講堂奥右側に絵が掛かっていた
講堂奥右側に絵が掛かっていた

 昭和十六年四月一日から、小学校は戦争のために子供を強くきたえる目的で名称も「高津国民学校」に変わり、戦時体制に突入。五年生以上の上級生は「武道」という新しい教科ができ、男子は剣道と柔道、女子はなぎなたをしたという。

 体育の時間も、行進や気をつけ、前にならえ、右にならえ、休めなどの訓練が幾度となく繰り返し、繰り返し練習させられ、秋の運動会では、集団の行進や体操が取り入れられた。

 そして昭和十八年頃から子供の体育の向上を増進することを目的に、学校給食が始められた。

 最初は雑炊だけだったが、しばらくして「味噌パン」が配られるようになった、というが記憶にない。

 給食室もなく、給食の叔母さんも居なかったから、担任の先生と五、六年の女子が盛り付けをして下さったそうだ。

 昭和十五年から高等科の生徒は、全員勤労奉仕に動員された。高津小学校では、北見方の日本通信工業と、久本にあった日本光学の溝口工場で、男子は戦闘帽をかぶりゲートルを巻いて働き、女子もモンペ姿に日の丸の鉢巻で働いた。昭和十九年八月二十四日、三年生以上の子供三百九十二人、先生十人、お手伝い四人が、現在の伊勢原市大山の浄発願寺に三年生と四年生、石雲寺に五年生と六年生が集団疎開。

 残った一、二年生と病気等の三年生以上の子供は、近くの神社やお寺に集まり分散授業を受け、低学年の一、二、三年は毎日三校時、四年生は四校時、五年生は五校時だった。昭和二十年四月から東部第六十二部隊の兵隊が校舎を兵舎代わりに使い始め、校庭はタコ壺だらけになり、学校は荒らされて見る影もなくなった。

 卒業生なら御記憶の方も多いと思うが、講堂奥右側に掛かっていた薪束を頭にのせた「三人の大原女図」の大きな日本画(作者不詳)もこの時亡失した。又、高津町の誇る川崎初の付属図書館蔵書も粗方(あらかた)亡失した。
 

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