戦後76年。タウンニュース高津区版では、7月16日号で紹介した北見方在住の黒川金次さんの戦争体験をつづった冊子「いのちの記憶〜私の戦争体験」(平成19年2月発行、筆録/吉田豊さん=北見方)の本文を掲載します(一部抜粋、編集)。
※本文中の人名は、プライバシーに配慮し仮名とさせていただきます
行軍の途中で
メナドからボルネオに渡る最短距離のところを目指す行軍が一番辛いものだった。今地図を見るとパンキルを目指したんだと思う。日が暮れるのは7時頃だが、明るいうちは空襲に遭うので、日が暮れて夜通し歩いた。夜明けまで50キロ歩いた。股ボタンをはずし、胸をはだけて、居眠りしながら歩いた。居眠りして前の兵の背中に背負っている鉄兜に、ゴツンと額をぶっつけて目が覚めた。また銃の床尾端に当たったりした。汗はぐっしょり、喉は乾く。隊長の水筒は持っていたが、これは飲むわけにはいかない。川の水は飲んではいけないと言われていたが、飲まずにはいられなかった。45分歩いて15分休憩をしたが、休憩となるとへなへなと崩れるように座り込んでしまった。辺りは真っ暗闇であった。
帰国へ
終戦を知ったのは、この行軍の途中3日目だったかな。8月16日以降だったと思う。集結したのはマリンプンというところだった。日本は8月15日に無条件降伏をしたということだった。ここで捕虜となった。
マカッサルから帰国することになった。船はアメリカのリバテー型の輸送船だった。船倉は涼しく天井は高く楽だった。帰るとき靴下にいっぱい大豆を渡された。船中で飯ごうの蓋に入れて携帯燃料やローソクで妙って食べた。船員は親切だった。米兵は黒人兵もいた。機関室も見学させてくれたりした。捕虜になった時はオーストラリア兵(英兵)だった。乗船まではオーストラリア兵が検閲をして、時計、はさみ、万年筆など取り上げた。みな邦人からもらって持っていた人は被害にあった。
みんなで仕返し
日本に帰って来て和歌山県の田辺港に上陸。整列して隊長に「かしら中」の敬礼をしていた時、MPが5人来て隊長のA大尉を連行していった後、中隊ごとに部屋に入ってからだった。恨みをはらすのだと戦友が大勢でB班長を袋たたきにした。降伏してからは、階級証は取りはずされ、みんな一市民となっていたのだ。私が衛兵勤務の時下痢をして用を足していた時往復ビンタをしたB軍曹だ。
C少尉もされた。「自分の位をかさにきて殴りゃがったな」と言うのが皆の言い分だ。俺は後ろで見ていたよ。5人も6人もで殴っているので加わらなかった。その他の将校は壁に背中をつけて黙って見守っていただけだった。やられたC少尉は若くて張り切っていて、やたらに兵士をひっぱたいてきたからだ。D大尉とE中尉は殴られなかった。戦争犯罪者に指名されたのだろうか。連行されたのはA大尉だけだった。
バラックの我が家
和歌山県の田辺から夜行で朝に京都に着いた。持ち物は背嚢、テント、これはつないでテントするので、普段は丸めて背嚢に背負っていた。毛布、水筒、大豆を靴下にいっぱい詰めていて重かった。コーヒー豆を一握りずつ貰った。珍しかった。
京都を出てからの記憶はない。川崎駅で下車したら、案内板があって地図が貼ってあり、空襲で焼けた地域は赤で塗られていた。北見方は赤く塗られていた。やられたのだなと思った。溝口から歩いて帰宅した。北見方は茅葺の正福寺をはじめ、農家など22軒が3月と4月の二度にわたる空襲で全焼していたのだ。当時は2軒が瓦葺、2軒がトタン葺きで、あとは全部藁葺きだった。我が家は焼けトタンと廃材のバラックとなっていた。8畳一間に両親と妹3人、弟3人の8人が暮らしていて、私が加わり9人となり、足の踏み場もないごろ寝生活が続いた。
自宅では戦死の公報が来てないので、おふくろが占い師に占ってもらったら「安心しな生きている」と言われたそうだ。いつかは帰ってくるだろうと思っていたそうだ。もっとも先に帰国していた多摩区出身でセレベスで知り合った戦友Fさんが私の自宅を調べて無事を知らせてくれていた。だから家族はそんなに驚きもしなかったのだろう。帰宅はたしか6月6日だったと思う。おふくろに「3分40秒で生まれ変わって帰って来たよ」と話したら「生んだ時は3分40秒どころかもっと長く苦しんで生んだんだよ」と言われた。
終わりに
ここまで20代の戦争に関わる体験を思い出してみた。日本の為に、私達の為に命を捧げた戦友に感謝し、心から冥福を祈るばかりである。 【了】
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