高津物語 連載第八三五回 「富士信仰」
江戸時代の登山は、山を神仏のおわします所、あるいは神仏の体そのものとして崇め、「お山」に登らせていただくための信仰登山だった。修行僧や山伏は、登山という代わりに、禅定(ぜんじょう)といった。
富士山は仙元大日という宇宙の根本仏あるいは神そのもので国土の柱だった。
従って、富士山を信じれば、個人も国も安泰だという富士信仰が生まれ、「富士講」という信者団体ができ、最盛期には江戸市中に四百前後あったという。
溝口地区の富士講の存在は、未だ承知していない。
富士信仰の主目的は、富士山の登拝、つまり礼拝が重要なのであって、富士登山用の衣装―六甲脚絆に草鞋(わらじ)穿きで、蓑笠(みのがさ)も着用して登った。
登山時期は夏山に限られ、冬山は当然避けられた。
多摩区登戸の枡形山に行った時、富士登山記念碑を見て、登戸を立ち、甲府から、先達というリーダーに従いて登った。
一方、大山詣での道中で散見した自前のミニ富士山を造る講中があった。
目黒通りの碑文谷辺りや国道246線沿いの、海老名市柏ヶ谷にある富士塚及び庚申塚は、相模鉄道の踏切際にあった。
もともとは大塚宿は、大塚本町交差点の近くにあり、明治、大正時代まで、鍛冶屋、豆腐屋、車大工、酒屋、菓子屋、旅籠、木賃宿(相部屋で各自が自炊する安宿)などが建ち並び、江戸末期には大変賑わっていた、と『ホントに歩く大山街道』(中平龍二郎著、風人社刊)にある。
問題の富士塚は「大山街道を離れ、トラックがたくさん止まっている駐車場を過ぎ、三百米ほどで富士塚に着く。畑の片隅に、付近の富士山の火山灰を積み上げて造った小さな塚がある。
塚の上には、文化一三年(一八一六)に柏ヶ谷の講中が建てた庚申塔がある。
塚の北側は広い雑木林で新緑が美しい。
往復で六百米になるが、時間に制約がなければ見ておきたい」とある。
富士塚とも云えない、歴史的背景の濃い内容であるが、路傍の歴史的事実を集約し、時代の真実に迫ってゆきたいと、思うのだ。
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