高津物語 連載第八九〇回 「地中海性気候」
現在住(すま)いしている高津区の特色を「オリーブがたわわに実り気候は温暖で、とても住みやすい所です」などと、書いたことがあった。思えば、随分昔のことだ。
「オリーブ」といったのは出まかせにしても、高津区以南が水深十メートルの東京湾の海であり、いつも爽やかな海風が吹いていたことを考えると、四季温暖で、比較的温かな土地と云っても過言ではないのだ。
桃・栗・梨・柿・無花果・棗(なつめ)等、果実栽培に適した土地柄だった。
思うに東京湾からの、温かい海風が、春・夏・秋・冬を通して吹き、比較的過ごしやすい温暖な気候の土地といっても、良いと思われる。
もっとも、近年特に中原区小杉駅前のように、高層ビル群が林立し、ビルとビルの隙間に、強風が発生して結果として、海風を遮る様な状況になると、この先高津の気温はどうなるのかと、心配である。
が私の幼年時代・昭和十年代の我が家の庭には柿の木が三本、バナナの木が一本、棗の木が一本、それぞれ実を付けた。
他に牡丹の樹が五・六株あり、いずれも、幕末から明治中期まで自家製茶園があり、その後に出来た「鈴木農園―鈴木フローリスト」の名残を残す樹木達だった。
牡丹の大きな花が、夜露に濡れて、芳香を放っていたのを、今でも忘れる事が出来ない。
その当時、高津地区全域で梨・桃の育成栽培をする農家が多く、至る所に梨や桃栽培の棚が見られたものだった。
がこんな高津の桃・梨等の栽培を、根本から覆す事件が戦時中に起こった。
「戦争の最中昭和十九年に軍人で総理大臣である東条英機という人がたまたま溝口を訪れた時、梨畑を見て『梨よりも米を作れ』と怒り出した。そこで町役場では、梨の木や桃の樹を切る様に勧めたので、どんどん切ってしまいました」(私も協力した高津小学校創立六十周年記念社会科副読本『わたしたちのまち』六十一頁)にある様に、昔は稲田堤の様な梨や桃の畑が、至る所にあったが、戦中から消えてなくなった。
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