高津物語 連載第八九七回 「七面山祭」
昔は「七面山招魂祭」が七面山山頂付近で行われていた。
「四月の七面山祭は大正時代には、山の桜が満開の時を見計らって行いました。この祭りは年番の方が前日に七面山上に諸道具を持ち上げて祭りの支度をし、幟を建ててお酒を捧げ、夜に入って四月の山上はやや寒くなりますので、焚火を囲んでお勤めをしました。夜八時ごろ迄行った」(上田武一『仕事師一代』―「七面山祭」)
幟を建て、御神酒をささげ、夜は焚火を囲んでお勤めをした、ともいう。
招魂祭は七面山上で、四月十八・十九の両日花火が上がり、神道による祭典が行われ、参拝者ご遺族の方々が、大勢参加し、昔は参道に露天商も出る程賑わったという。
町では、溝口神社の祭礼に使う御神灯を軒先に吊るして、各家の灯が入ると、春の風と共に、春祭りの気分が町に流れた。
『川崎市民俗文化財緊急調査報告書』第三集『二子・溝口 宿場の民俗』(川崎市教育委員会)編の「年中行事一覧表」に「七面様の祭り(溝口)は、例年四月十八日に行われていた」、二子では「光明寺で、永代経を唱え、戦前はお焚といって米一升と五十銭位のおかず代を持っていくと、黒塗りの御膳に食事を出してくれた。現在でも赤飯だけは出される」とあるが、真偽は不明だ。
「招魂」とは、死者の魂を招き返すこと、昔人が死ぬと生き返らせようとして死者の衣をもって屋根に昇り、北に向かい三度その名を呼んで「なまよばい!」と呼んだ―『民俗語大辞典』らしい。
転じて、死者の霊を招いて祭る儀式を「招魂祭」と云った様だ。
また、明治維新前後から、国家のために殉職した人の霊を祀った神社を「招魂場」と呼んでいた。
が、「招魂場」を「招魂社」と言い換え、昭和十四年からは「護国神社」と改称した。が『靖国神社』だけは改称しなかったと『広辞苑』にある。
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