高津物語 連載第九〇二回 「加瀬山 その2」
山梨県北東部笠取山を水源とする多摩川は、長さ一三八Km、地域面積一二四〇平方キロメートルの中型河川である。
多摩川は河口から一八Kmの溝口から下流域に三角州の氾濫原から生まれた沖積平野が大部分を占めるが、幸区でも大きな蛇行帯をなしているが故に、集中豪雨の時等は、度々洪水を起こした。
中世期、多摩川とその右岸に連なる多摩丘陵は、軍事的にきわめて大きな役割を果たした。
台地は標高三十三メートルの武蔵野台地の最南端、急崖の加瀬山である。
ここには太田道灌が「夢見が崎」と呼び、千代田城を築城しようとした景勝の地で、眼下には迂回した多摩川が迫っていた。
十二世紀以降、都が鎌倉に移ると、鎌倉防衛の前線基地となった。
加瀬山は東京湾と多摩川を越えてやってくる外敵への前線基地であり、重要な防御ラインでもあった内陸部を見回してみても、稲毛荘を支配していた稲毛三郎重成が多摩区菅仙石や多摩区升形山の升形城に自らの本拠を置いた。
多摩区の長尾の妙覚寺の前身「威光寺」は、九世紀中頃に建立された源氏代々の祈願寺であった。
高津区の津田山には作延城を置いて、外敵への防御ラインとし、中原区の井田山に、井田城を置き、中原街道の防御ラインとした。いずれも「いざ鎌倉!」への備えとしたものだ。
古多摩川といわれる古い河道は、今の水路より南側を流れ、幸区の中央部―南武線鹿島田駅外側辺を帯状に流れて、矢上川や日吉方面からの早淵川と合流した鶴見川と東京湾に注いでいた。
その日吉加瀬山で昭和十二年慶応大の発掘調査で「白山古墳」という武蔵国最古の全長八七mの巨大な前方後円墳から出土したのが「三角縁古墳神獣鏡」である。直径二二・四cmで
天・王・日・月の銘文を持ち、ほぼ完全な形の「四神四獣鏡内行花文鏡」で、後に国宝に指定された。
被葬者の胸の辺に多数の玉類、刀身、武具、斧頭、などが出土、他に三基の粘土層から三面鏡と玉類、鉄製品等が多量に出土した。
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