高津物語 連載第九〇五回 「『秋草文壷』のあった土壌」
川崎市幸区加瀬山の武蔵野国最古の全長八七メートルの白山古墳前方後円墳から、発見された「三角縁古墳神獣鏡」は銅鏡で、直径二二・四センチ、天・王・日・月の銘文を持ち、ほぼ完全な形の「四神四獣鏡内行花文鏡」だという。
被葬者の胸のあたりに多数の玉類・刀身・武具・斧頭・等が出土した。
何で死者の古墳から大型鏡が出土するのか、という疑問に対して考古学者の森浩一氏は『古代日本と古墳文化』(講談社学術文庫)で
「日本の古墳にも、大型教も小型鏡も出土する。だが中国、とくに華北に大型鏡はほとんど知られていない。いいかえれば、必要とされなかったとみてよい大型鏡―その大多数が三角縁神獣鏡―は前期古墳に集中している。
死者を厳密に密閉し死骸を保存しようとする強烈な意欲のあった時に、三角縁神獣鏡を死者の傍におさめ、古墳後期になって墓室内で白骨を移動させるというような死骸の破壊の行なわれているころには、すでに副葬品全体の中でも、鏡の占める割合は弱くなっているし、銅鏡を副葬している場合も、中型鏡か小型鏡が大半である。つまり、華北や朝鮮の古墓での鏡のあり方に近づいているといってよいだろう。
この様に整理すると「三角縁神獣鏡」は、死骸を厳重に保存しようとする信仰と結びついたもの、別の言い方をすれば死骸の保存に必要な呪具、葬具であるとみることができる。(中略)
そのような銅鏡は、単に中国の王朝や有力な政権から与えられたが故に貴重であったのではなく、人びとをひきつけた死体の世界にまつわる信仰に結び付いていたので、必要とされ、墓にいれたと基本的に考えている」とされている。多摩丘陵南西加瀬山の白山古墳は高さ十米、一号から九号の前方後円墳、麓に九基の古墳があった。
が昭和二年「新鶴見操車場」従業員官舎建設で削られ、昭和十六年に進出した三菱重工業・大同製鋼敷地埋め立て用土壌として運ばれ、翌年には道路公団用地用にトラックで運ばれ、岡の形は消滅、今僅かに面影を残しているに過ぎない。
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