高津物語 連載第九二五回 「府中県道誕生」
明治十八年(一八九六)四月、日本初の「河川法」が制定され、原則、都道府県を河川管理者として、国が河川工事を実施する体制が定められた。
これより先、東京市による一方的な小河内ダム建設は、内務省の調停で昭和十一年に妥結。工事容認の見返りに神奈川県は東京市から一五八万円を受領、これを原資に県は、総工費一九三万円で多摩川右岸農業水利改良工事に取掛った。
昭和十五年(一九四〇)川崎市農業水利改良事務所所長に平賀栄治が命じられ着任。平賀栄治、四八才。 平賀栄治は先ず始めに、多摩川の水流下を流れる伏流水、更にその下にある不透性地層や流域の地質迄を徹底的に調査し、その上で宿河原村取入口を修理、堰場の基礎を川底の不透性地盤まで打込まない「浮き堰堤」又は「透過堰堤」という堰を設計、そうして、昭和十六年六月に工事を開始して完了した。
平賀栄治が次に取組んだのが平瀬川改良工事である。
大雨が降ると多摩川支流二ヶ領用水に流れ込み、洪水を引き起こす平瀬川、それを一年間掛けて津田山トンネルを掘り、新平瀬川底を一・五m低く掘り下げ、用水路が新平瀬川とぶつかる手前に堰を設け、多くなりすぎた三分の二を新平瀬川に落とし、残りの三分の一を伏せ越しする方法―詰まりサイホンの原理を応用して新平瀬川の下を潜らせ送られた水を二重に作られた円筒の内側に噴出させ、更に円筒の切り口角度で、それぞれの地域に分水させ水量を調節する仕組にした難工事だった。このため平瀬川沿いの二八人の地主から用地買収の必要があり、平賀は勤務終了後の毎夜遅く迄、地権者を尋ね買収に応じて呉れる様、説得した。
上河原取入口で取入れた二ヶ領用水は落合(合流点)で南武線を潜り、神明橋で、一旦久地方面に引込んで水勢を落とし、新府中街道をトンネルで潜って久地大入樋迄、新府中街道道は津田山下を流れた。この為、府中街道は、高津十字路の田中屋本店を移動させて川崎と結ばれ、初めて川崎から府中迄貫通する事となる。
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