郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第10話 その1 高品千鶴子さん
◆当時の町の様子
昭和46年に梶ヶ谷に越してきました。 最初、母と2人で下北沢から電車に乗っ てここを見にきた時、梶が谷駅で誰も降りないし、梶ヶ谷第一公園横の急で長い階段を見て、びっくりしました。当時、東急がこの辺の土地を開発して分譲住宅として昭和40年頃から売り出していました。この辺は、昭和42年から人が移り住み、うちが引っ越すときは、もう2、3軒が空家で残っていただけでした。バス通りは分譲のときに東急が山を削って作ったそうです。ここいらは岩盤が強くて地震でもあまり揺れません。
梶ヶ谷1丁目は政令指定都市になるまでは大塚町会に入っていたようです。2丁目は社宅が多かったですね。これは62部隊の国有地を一部建設省の社宅にしたと言われてます。戦時中は、虎ノ門病院や宮崎中学校 には兵舎があり、今の青少年の家は将校の ゲストハウスとして使われていたそうです。私の父が軍人でしたので、私の引っ越す場所を聞いて「もしかしたら、62 部隊のそばではないか」と言われましたが、そのとおりでしたね。 引っ越してきた当時は3〜6丁目で梶ヶ谷町会が構成され、その1年後くらいに4丁目が独立して町内会を作りました。梶ヶ谷の地元の人は、尻手黒川道路に沿って住んでいて、駅に近い方に分家、山だったこのあたりに新住民が住んだという感じではないでしょうか。
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