戦火にのまれる川崎、疎開先の風景、飛来するB29など第二次世界大戦の惨劇を訴える100枚余りの絵。木月祇園町の中野幹夫さん(86)が10年以上かけて描いたものだ。「知られていない空襲などがある。記憶を辿って描いた」と話す。
1935年、中野さんは文具店の次男として生まれた。6歳で太平洋戦争が開戦。次第に店頭からなくなっていく雑誌、代用食ばかりになる食卓。それでも「初めは日本は破竹の勢いだと信じていた」という。提灯を手に「勝った勝った」と中原街道を練り歩く人の姿が印象的だった。
忘れられないのは、東京大空襲の日に兄と見上げたB29の姿。操縦する米兵の顔が見えるほど近くを飛んでいった。「まさか一カ月後に同じ方法で川崎もやられるとは」。45年4月15日の午後10時頃、B29から照明弾がゆらゆらと落下してきた。川崎は昼間のように明るくなり、それからは焼夷弾の海。「家に落ちないでと防空壕でひたすら祈った」と回顧する。後日、知人のいる神地まで家族と歩いたが、木月堀の両側とも跡形もなくなっていた。その後は大山に一カ月半ほど疎開。玉音放送は自宅で家族と聞いたが、幼かった中野さんには意味が分からなかったという。
戦後は高度経済成長の中でがむしゃらに働いた中野さん。戦争に思いを巡らせたのは定年後、町内会の役員だった頃。小学校から平和教育の依頼があり、平和館で資料を読みあさった。「日本が嘘ばかりの戦局を伝えていたと分かってね」。絵は児童にもわかるようにと描き始めた。中野さんは「最近は平和教育が薄れてきたように思う。いま一度学び、平和のありがたさを知ってほしい」と静かに語った。
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