戦後復興期の1948年(昭和23年)12月、戦前に足柄上郡でスポーツ振興に尽力した川本亮之輔の名を冠した記念マラソン大会が山北町で始まった―。このマラソン大会の第70回大会が13日、山北町で開催され、足柄上地区の中学校9校の選手と高校生を含む一般ランナー約200人がチームレースで健脚を競った=故人は敬称略。
今年70回目の開催を迎えたこのレースは「川本杯チームレース大会」と呼ばれている。個人競技である長距離走を「チームレース」とするスタイルが第1回目から連綿と受け継がれている。
川本亮之輔は1902年(明治35年)、足柄下郡大窪村風祭(小田原)の漆問屋、竹縄松五郎の三男に生まれ旧制小田原中(小田原高)から早稲田大学を経て箱根富士屋ホテルに勤務。25年(大正14年)に23歳で旧川村(山北町向原)の川本家に婿養子に入った。JR御殿場線東山北駅前のかやぶき屋根の古民家が当主をつとめた川本家だ。
「川本杯」は、1980年代に山北駅前から山北高校に発着地点が変更され、同時に川本邸の前を選手が駆け抜けるコース(一般男子10・6キロ、一般女子・中学男子4キロ、中学女子2・4キロ)が設定された。コース変更にかかわった足柄上陸上競技協会会長で元教員の吉田信夫さん(72)は「川本先生への敬意を込めた変更だった」と話す。
孫の代にあたる現当主の川本寿彦さん(74)と妻で亮之輔の孫・納布美(のぶみ)さん(68)は「亮之輔が眠る香集寺は山北高校からほど近い高台にある。毎年このレースを見守っている」と話す。
50年(昭和25年)生まれの孫・納布美さんには祖父の記憶がない。亮之輔は同28年(昭和13年)11月26日に青森県八甲田山中に墜落したとされる飛行機事故で36歳の若さで鬼籍に入ったからだ。
亮之輔と同様に婿養子として川本家に入った寿彦さんは「直接会ったことがないが、家には当時の活躍をうかがい知る写真や資料が残っている」と話す。その一つが1932年のロサンゼルスオリンピックの開会式を写したパノラマ写真だ。
山北へ来た亮之輔は29年(昭和4年)に川村青年団長に就任(当時27歳)。地元青年団やスポーツ愛好家らに呼びかけて「山黎(さんれい)クラブ」を創設した。この山黎クラブが47年(昭和22年)設立の現・足柄上郡陸上競技協会の前身となった。
亮之輔は小田原中や早稲田大学などでの人脈を生かし、当時の有名アスリートや体育関係らを招き陸上競技の練習や審判方法の講習を開いた。川村小学校で開いた陸上競技大会には、28年(昭和3年)のアムステルダム五輪で日本人女子初のメダリストに輝いた人見絹江を招いた記録もある。
こうした繋がりのなかでロサンゼルス五輪のパノラマ写真が川本家にやってきたことは想像し易いが、どのような経緯で川本家にもたらされたのかは今となっては紐解くことができずにいる。
松田にも偉人
山北町の隣にある松田町には箱根駅伝のコース設計し、東京五輪ではマラソン審判団の団長も務めた渋谷寿光(1894〜1983)がいる。
渋谷は亮之輔の8歳年上で同じ旧制小田原中の出身。NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公で日本人初の五輪マラソンランナー金栗四三(1891〜1983)と渋谷は、東京高等師範学校(現・筑波大学)の先輩後輩でもあり、亮之輔が両人を技術講習会などに招いた、との記録も残っている。
亮之輔が非業の死を遂げた後の日本は次第に戦時色を強め、1940年に開催が予定されていた東京五輪が中止となり、敗戦国となった。
再び芽吹く
戦前に亮之輔が蒔いた「スポーツ振興」の種は戦火にも消えることなく、戦後復興期の1947年(昭和22年)に再び芽吹くことになった。
同年に足柄上地区一周駅伝競走大会が始まり、翌年に始まった「川本杯」では亮之輔の息子・公弥が優勝カップを寄贈。箱根駅伝(1920〜)の黎明期に早大で活躍し、亮之輔と旧制小田原中の同窓生だった河野謙三とその兄・一郎からも優勝旗が寄せられ「川本杯」がスタートした。
足柄上陸上競技協会会長の吉田信夫さんは「川本杯からは尾崎好美さんや箱根駅伝の選手など多くのトップ選手が誕生した」とし、元会長の久保敏雄さん(89)は「協力・励まし合い・助け合いなどを強調している。他にあまり例のない画期的な発想」と、3人1組のチームレース方式を採用したことを記念誌で述懐している。
こうした郷土のスポーツ史に“ひとつの足柄上”を具現化した連携の足跡が受け継がれている。
▽参考文献/川本杯第50回記念誌・上陸協50周年記念誌・神奈川県史別編1人物、▽取材協力/松澤大輔氏(山北町)
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