高津物語 連載第八三〇回 「旗鉾」のこと
柳田國男は『旗鉾のこと』という文章で、神社の幟(のぼり)の見解を述べている(『定本柳田國男』全集・第十一巻・筑摩書房刊)。
寛延年間(一六二四)三代将軍家光の時代から「此時代より開帳場神仏による幟を立てる事始れり」と『武江年表』(ちくま学芸文庫)にある。開帳場とは、神仏仏閣の祭礼時に階段を斜形に板張りにする所から斜系を利用した装置を云う。
柳田國男は「ノボリと云う語義の穿鑿(せんさく)は他日の事として、幟は要するに旗の一種である。今日の幟は乳(ち)(竿や紐を通す小さい輪)を付ける事から始まり、後ますます長くなった。それ以外に何ら特殊の起源を有する物とは思われぬ」と書く。「正一位稲荷大明神」は、江戸市中稲荷のない所はない意味だと『江戸府内絵本風俗往来』で断っている。
一見朝廷から与えられた位を表す様に見える幟は実は江戸時代から神社管理を公認請負された吉田家が、稲荷勧請の際、勝手にネーミングしたものだ。
稲荷造りがブームになると、吉田家は利益追求に走り、何となく霊験あらたかで、格式が高そうな肩書を付け、売り込みに励んだ。
『伏見稲荷』は稲荷社の総本山だが、直接勧請を願い出れば、簡単に許可が下り幟を掲げる事が出来た。
吉田家と白川家―幕末から神道を任せられ、王子稲荷・嬬恋稲荷・笠間稲荷の勧請申請を受付け、簡単に稲荷社を建てられる様になったのが、稲荷社倍増の理由である。
「江戸名物、伊勢屋稲荷に犬の糞」
川柳でこの時代を諷刺しているのも、面白い。
今年の正月は、氏神様溝口神社初詣出のお客が、殊の外多かったと外聞した。
大幟を建てる大柱とボルトが見付からず、今年は立たなかったとも聞いた。
正月三が日だけ、社務所に飾のだ、とも聞いた。
「一卿咸蒙神明霊」
「萬家奉祝大平和」
一行目の三字目「咸」は、口編九画で、昔は「カン」と呼んだ。今は「一卿ことごとく、明神の霊を蒙る」と読む様だ。二句目は「萬家は奉祝す大平和」と読み下す、大時代の幟である。
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4月26日