高津物語 連載第八四七回 「祈願寺」
大山街道溝口宿にあって、何時の時代も時代を先取りして、陰に日向に溝口宿発展をリードして来た原点が溝口宗隆寺である。
宗隆寺が日蓮宗に改宗五百年を迎え、宗隆寺先代島田堯存師の書かれた労作『改宗五百年を迎えた溝口宗隆寺』(昭和三六年七月二六日発行)が手元にある。
その書き出しは…
「溝口宗隆寺は昔から今に至るまで、一村一寺の建前で存在し、今後も長く続いて妙法の下種結縁に資してゆくものと信じている。
寺は町の中心から少々それているが、町村制が府かれて高津町となってからも、二十五年前に川崎市制の延長となってからも、甚だしい変化は見られない。
ただ近時交通の便がよくなってからは、丘陵の上でも、道路に面しない場所でも人家が増えて来た。
市内全体から眺めた時には樹木の多い、田畑の見える市民の憩いの場、即ち安住処として開発されているといえるであろう。
多摩川デルタといわれるこの地方は、世田谷丘陵と多摩丘陵に挟まれた低地で、世田谷から寺を過ぎると台地に入って行く。谷戸の手前の台地に寺有山林七面山がある。
厚木街道の右側では、七面山の頂上までが溝口で、左側は二〇〇米先方の片町十字路まで溝口で、此処から道は登り坂となって、右へ上りつめると、次に旧東部六十二部隊のあった馬絹で、ここを過ぎればやがて横浜市港北区、昔の荏田宿である。東急大井町線が溝口からこの街道に沿うて、横浜線長津田に出て、左折して小田急線の南林間駅が延長されるというので、界隈では中々の土地ブームであるようだ」
が、本編に先立って書かれた日蓮宗溝口宗隆寺島田堯存住職の堂々たる書き出しで、寺の歴史が即、溝口宿の歴史であるとの自信に満ち満ちている。
「古い歴史をもつ宗隆寺は、その前身があるのだが、果たしてどういう経過をたどって来たかは中々解明されないままに、今に至っている。試みに『新編武蔵風土記稿』を見ると天台宗本立寺とて溝口の西のはずれに位し、後山に薬師堂があり、前面は川に囲まれている」と寺の状況を詳細する。
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