高津物語 連載第八五九回 「『いやのめ』のこと」(I)
古文書「溝口水騒動」久地村の項―に「同村ハ同分量樋ヨリ弐拾町程上ノ方字いやのめ と申処同場有之右場所ハ樋ノ上八ケ村組合用水路ニ高台之耕地ニ殊更用水路几壱里半程も有之候故水掛引き行届不申水番人足昼夜無差別罷出…」(川崎市市民ミュージアム所蔵文書)「いやのめ」という言葉が出て来る。
「いやのめ」とは『川崎市高津区久地伊屋之免遺跡調査報告書―高津図書館友の会郷土史研究部編』の「伊屋之免」で、場所は「緑ヶ丘霊園」の最北端―川崎市高津区久地伊屋之免四番地を本籍とする「溝口北パーク・ホームズ及び川崎医療生活協同組合久地診療所」の現在地だが、新築工事請負の(株)ユニテリアが川崎市教育委員会に遺跡調査を依頼前述報告書となった。
報告書編集は持田春吉・村田文雄両氏が行い、持田氏は報告書、村田氏は『古代の南武蔵―多摩川流域の考古学』(有隣新書、後改訂版)で「前期小形古墳・久地伊屋之免古墳」―昭和五八年十月二日久地伊屋之免遺跡に立った持田氏は、発掘調査に先駆けて綺麗に伐採された雑木林の中に、盛り上がりを見付け、思案していた。古墳?持田氏は直感した。ただ、「遺跡の住民台帳ともいえる遺跡地図には記載されていない」で始まり「古墳は多摩川沖積地を望む高津区久地の古墳規模は南北一七m・東西径十六m、高さは約二mの円墳で、木棺二基と葬儀用の壺型土器、小玉・棗玉・匂玉等が発見され」「一歩間違えば調査もされずに破壊される所であった」と書き、次のように結論される。
「律令下の武蔵国橘樹郡には当初、橘樹・高田・御宅・県守の四郷が置かれた。この内、地方行政制度の単位である県の分布は、元々は越前・美濃・尾張から以西の多く、特に畿内に集中している。従って私は四郷の内、県守郷の中心的なムラは、銅碗や飾太刀など畿内文物との繋がりが強くたどれる久地・津田山・下作延辺りであったのではないか、と推測している。つまりそこには、朝廷から派遣された官吏達の豪族化した姿を彷彿とする事が出来るのである」と。
GO!GO!!フロンターレ4月26日 |
|
|
|
GO!GO!!フロンターレ4月19日 |
|
4月26日