高津物語 連載第八六九回 「蝦夷の戦乱と源義家の帰還」
青森県八戸市郊外の林ノ前遺跡―一〇〜一一世紀に造られた集落跡は、敵の激しい襲撃に備えるための防御性集落で、急な崖の上の急傾斜地に一三〇軒の竪穴住宅跡や堀をめぐらした支配者の居住地域だった。
が、多数のやじり―やじりは戦いの後、回収される貴重品だったにも拘らず―約二百個出土した、という。
後ろ手に縛られた不自然な人骨は十体、内七体は頭だけだった、ともいう。
烈しい戦いの跡―この発見で平安時代後期、蝦夷地とされた北東北・南北海道が戦乱社会であったことが確定的になった。
その頃京都の朝廷は摂関政治の時代で、蝦夷の地を担当する北方の指導者は軍事力を供えた源氏などの人物が派遣された。
都の貴族にとって毛皮・馬・砂金・昆布等北方が生み出す富・特産物は憧れの的で、送る様にとの無理な要求が中央からあった。
後ろ手に縛られた人骨と三個の頭骨が一緒に見つかった住居は、捕虜、或いは裏切り者を捕えて閉じ込め、生首を投げ込んだものか。
よく似た構図が国重要文化財、東京国立博物館蔵の『後三年合戦絵巻』に見る事が出来るという。
勝ち誇る源義家が、捕えた敵を後ろ手に縛って木につるし、その足元に敵将の生首をさらしているのは、源氏武士団が団結と成熟を深め、次の時代の主役に躍り出る基礎を固めたとされる後三年の役(一〇八三〜八七)の残酷な戦いを象徴する場面、私達が学校教育で教えられてきた薄っぺらな知識にほかならない。
が、林ノ前遺跡での戦いは、蝦夷内部の集落連合体―人口で千人程度の集団同士―の激突だったとされる。
人口千人程度の集落同士の激突なのに、戦乱が百数十年も続くものだろうか。
歴史で教わった前九年・後三年の役で、源氏武士団が関わった英雄物語だけがクローズアップされるが、実はもっと重い歴史的意味がありそうだ。
源義家が帰途多摩川の大水に遭遇し伊屋之免で綱下げの松に掴まり、多摩の横山に上がった等は、正直どうでもいい事と思われるのだが…。
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