高津物語 連載第八八八回 「上作延への道」
上作延への道は、片町十字路の「川屋」から始まる。
店と土蔵が接続した整った形をした「川屋」は、川辺家の屋号で、昔は質屋と呉服屋を営んだが現在は一階がクリーニングを商うビルに変わっている。
昭和十七年宮前区宮崎に東部第六十二部隊が駐屯すると、全国各地から入隊の付き添いや面会する家族が出て来て、片町十字路が入営する肉親との最後の別離の場となったが、汽車がなかったりして故郷に帰れない人々が、良く「川屋」に泊まったという。
そのため布団を何組も用意していたという。上作延方面への道は、「川屋」を右折する一本だけだった。
寛政三年(一七九一)に青陵岩精が描いた『武陽八景之図』は、七方向に聳える「七面山」(真中を南武線が通行するような道はない)の山裾を上作延方面に右折する。
が、両側に十軒位の家並を見て、其のまま進むと「綱下げ道」(「津田山」道)と「聖松道」(「向ヶ丘」方面)に分かれる。
「聖松道」の先に「都筑丘ノ夜雨」が描かれているから、この限りでは「大山街道」は完備されてなくて、現在より遥かに登戸寄りで宮前区に入ったことが判る。
「聖松道」途中に「下作延」がある。
東京都世田谷区立郷土資料館蔵「綱下げ道しるべ」(江戸時代後期)後段に
「下作延の綱ニ松
願 つなにとり仕り
兜松申しし
上作延のひじり松
上は百尺の志あり
下は千薬の
茯苓(ぶくりょう
―菌類の漢方薬)
あるらんとして
君が代祝う
瑞象なるなり」
(古文書解読には「高津古文書研究会」飯田・関両氏の協力を頂いた、感謝!)
「上作延」は「綱下げ道」の七面山山裾を行った「向ヶ丘ノ秋月」直下に表示され、そのまま進むと多摩区の「枡形山」に出る。
その左に「大山」が描かれているから、この限りでは「大山街道」を使った「大山参り」は無く、大山参拝は「津久井街道」を使った「大山詣り」のみとなる。
GO!GO!!フロンターレ4月26日 |
|
|
|
GO!GO!!フロンターレ4月19日 |
|
4月26日