高津物語 連載第八九三回 「高津の街」
「ヤストモ・マーケット」が溝口駅前に出来たことによって、高津の町並みが大きく変わった。その切っ掛けを作ったのが高津警察署だった。昭和十八年(一九四三)六月、現在地に庁舎を新築して移動した。昭和十六年(一九四一)に国策軍事工場の日本光学が久本に進出、溝口地区が大きく変貌する状況に対応した施策と思われる。日本光学大井工場と同溝ノ口工場を結ぶ大井町線が進出しても、大井町線「高津駅」はそのままだった。
戦後、ヤストモ・マーケットが出来て、大山街道の商店が溝ノ口に出店した。
主な商店を挙げると…
二子 杉崎時計店
溝口 恒川精肉店
溝口 中野パチンコ店
溝口 嶋崎文教堂
溝口 灰吹屋薬局
溝口 十字屋商店
溝口 嶋崎建材店
溝口 持田写真機店
溝口 三田文具店
溝口 佐保田洋品店
溝口 八百長商店
等である。
これに伴い戦時中類焼を防ぐため、両側の商店を疎開させた「高津町役場」、大山街道を出て、初めは現在の「てくのかわさき」の場所に移動した。次にトイレの汲み取りが、水洗トイレに変わった事によって、清掃局の自動車置場が宮前区宮崎に移動し、現在地に移動した。
逆に溝口駅前交番の隣地にあったかまぼこ型のCIA高津図書館は、初め現在の子供文化センター前の空き地に移動した。そこは旧高津公民館があったところで、公民館は市民館となって現在の男女共同参画センターに移動、更に溝口再開発でマルイ十一・十二階に移動した。高津図書館は溝口南公園の緑地奥に移動した。
此処は元高津高校のあった場所で、戦時中の混乱から戦後は立正幼稚園があったが緑地公園と変わった。国木田独歩で有名になった溝口亀屋亡き後、島崎藤村直筆の「国木田独歩文学碑」の移設も出来た。ともあれ溝口駅前再開発で溝口駅前は大きく変わった。
―お詫びと訂正―
4月24日号掲載の高津物語「太平洋戦争戦没者慰霊碑」の中で「小川周作」様としたお名前は「小川周一」様の誤りでした。
お詫び申し上げ、ここに訂正いたします。
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4月26日