高津物語 連載第九一八回 「多摩川大洪水 三」
明治四三年の多摩川大洪水で一面水浸しとなった高津町と二子大貫家の状況は瀬戸内晴美著『かの子繚乱』に見た。その他の町の状況は知る由もなかった。
此度同年八月十二日に神奈川県溝ノ口局受付の洪水の無事を知らせる「高津村溝口在住の鈴木宗輔差出の官製はがき」を入手した。
「拝啓此程は稀の増水にて玉川堤防も一箇所破損仕り私方隣まで浸水有幸ひ私方には何等の損障も御座なく候に付、御休心下度」の文面である。これで溝口地方は大洪水の余波は受けなかったと勘違いしないで欲しい。
文中に「私方多摩隣まで浸水」と見える様に鈴木宗輔家と灰吹屋、郵便局、警察署、小学校(現帝京大学等医学部付属溝口病院)の海抜十四mにあった土地を除いては、溝口、二子一帯は「泥の海」になった筈である。
これに懲りた内務省は『川崎市史』年表で大正八年(一九一九)六月に「内務省、多摩川河口から久地に至る多摩川右岸改良工事の為、市内小向に改良工事事務所を設け翌九年から工事に着手」と書かれている。
「多摩川水害史を見ると記録されている大きなものでも、一六四四年(正保元年)から昭和四十九年九月一日まで二十八回の多くを数える」と国土交通省京浜工事事務所編『多摩川史』に見える。
関東大震災から五一年目のこの日。マリアナ諸島で弱い熱帯性低気圧として発生した台風十六号の中心気圧は九六〇ミリバール中心付近の最大風速は四〇mと大型台風になった。
小河内ダムは貯水限度を遥かに超え、放水量は最高時毎秒七百トンと通常の三五倍になった。午後多摩川増水は続き狛江市緒方付近小堤が崩れ始め、午後四時水位は堤防上端迄上がり、激流は本堤防を直撃した。市長は都知事に自衛隊の出動を要請後、本堤防は九時四十五分長さ五mにわたり決壊、民家数軒が流失、水流は衰えず三日迄十九軒の家屋流失の大惨事となった。
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