高津物語 連載第九一九回 「多摩川大洪水 四」
前回の祖父の葉書は余りに達筆な難読文字があり、漸く「私方には何等の損障も御座なく候に付、他事乍ら御休心下され度御地方は如何」と漸く解読出来た。 「多摩川大洪水」の関連情報を探ると『神奈川県農会報』に「今回の洪水は実に近年類無き所にして、土地のより多少の差異はあるべきも、兎に角明治四十年の洪水以上の洪水にして諸川が漲溢せざるはなし。
水勢の加わりしは八日の午後にして十一日に減水に向い十三日の大雨に再び増水、十三日の大雨に再び増水を来し、仮修繕の場所を破りて、氾濫するあり。
懸岸の崩壊するありて交通は再び途せらるに至る所あり。今回の洪水も平塚方面及川崎方面は四十年と同じく、渺茫たる泥海を現出し其上流亦浸水地域少なからず。」とある。
「多摩川は四十年の洪水より水量多く、鶴見操車場以北は、汽車電車共途絶す
堤防は上流なる稲田村に於て切所七十間一箇所、登戸にて切所九五間、欠所二五間に及び稲田、生田、高津村は河水一面に横溢して家屋の浸水せしものあり。
又稲田村に於いては出水益々加わりしを以て死傷者ヲ出すに至りたり
下流に於手も、四十年に決壊せしと同一場所なる御幸村南河原堤防約五十間は十日午後七時五〇分頃決壊の為、御幸、日吉、町田、大師、河原、川崎、旭、汎濫するに至りたり。
されど幸に家屋の流失人畜の死傷なかりしも川崎に於ては最高水位十日十七尺九寸に達し浸水は四十年に比すれば約一尺高しと称す。
同所では学校社寺に避難所を設け百七五名を収容せり。
この川筋の最高水位は二子に於て十一日午前二時十六尺に達し御幸村上平間は量水標流失せしを以て其の最高を知る事能わず。
以上の内被害の最著しきは川崎方面第一にして稲田村方面を第二とす。
堤防決壊延長約四百間」
―今は昔の物語ではある。
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