高津物語 連載第九四六回 「『高津区おはなしアーカイブ』(高津区役所編)―三田久幸氏の証言から」
『自分たちより年上の高等科生は、学徒動員で近くの日本ヒユーム管工場で働いていました。
工員さんたちは皆戦争に行っておりましたからね。やがて戦争は一段と激しさを増してきました。なぜこんな田舎までと思いましたが、近くに(馬絹)六二部隊の兵舎があり、溝口に日本光学の工場があり、下作延の七面山にはサイレンや高射砲陣地がありましたからね。それで標的にされたんですね。
昭和十九年五月二五日の夜、私は庭に居ました。轟音がして、夜空を照らす探照灯に照らされてB二九の編隊が通過しています。
「ヒュウー」「ザー」という不気味な音。
「焼夷弾だ」
父の叫び声、物置に飛び込んだと同時に、物凄い音がして、吹き飛ばされました。
土壁の煙がもうもうとする中、見上げると屋根に大きな穴が開いていました。
互いに呼び合いながら庭に出ると、母屋の屋根や庭のあちこちに、炎が上がっていましたが、梯子をかけ、父が茅葺屋根の棟にかけられた鎖につかまって、炎をたたき、払い、何とか無事に消火する事が出来ました。
初めに掛けた梯子が(屋根まで)届かなくて、転びながら長い梯子を取りに走りましたね。
大混乱、必至でした。
焼夷弾は、寒天状に固めた油が燃えながら、空から落ちて来る。おびただしい数の焼夷弾が降って来るのです。
その寒天状のものが、まだあちこち、至るところで
燃え上がっていました。
朝になり、憲兵隊や警察官、消防署の人たちが大勢来て「時限爆弾かもしれないから・・・」と検査をして行きました。
その間は(自分の家なのに)家に近寄れなくてね、夜までかかりましたが、無事でした。
(後で判ったことですが)物置の屋根の穴は、焼夷弾を束ねるための鉄板が、落ちて来たためのようでした。』
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4月26日