高津物語 連載第九五七回 「府中県道」
府中県道――川崎・府中線は、久地大圦樋工事が進行途中で、それ故に車の交通量が少なかったのだと思う。
勿論(もちろん)、平瀬川を、津田山を貫通したトンネルに通す併設工事は、この段階では未だ進んでいなかった。
前にも書いた様に、現久地スニーカー・タウンの場所も、地下十メートル掘り込んだ我が家の田圃だった。
何故だか知らないが、昔幼稚園児の僕は、見に行ったことがあった。上の方を人や車が通るのを、下からしっかり見上げていた。
私が四歳とすると、時代は昭和十五年のお話である。
二ヶ領用水は久地で宿河原からと登戸方面の河川が合流し、「鷹匠橋」へと流れ、そのまま二ヶ領用水となって府中県道と交差する。
「久地橋」下を、五本の水路で潜って、津田山の裾を流れ、久地大圦樋に流した。明治四十三年一月木製の「久地大圦樋」が突然壊れたため、用水組合は、最大の工事費を捻出して、明治四十三年四月、石やコンクリートを使って耐久性のある改良工事としたから、問題の同年八月八日から降り続いた大雨では決壊することもなかったようだ。
新聞は「東海道の全部及び東山道の一部諸川増水して水害甚だしく、汽車及び電信電話の如き、何れも不通となり、浸水家屋及び浸水耕地は其の幾千たるを知らず」とか、「九日朝より非常なる出水あり。諸川堤防破壊し、濁流滔々(とうとう)として作物は素より其の他の被害多く…」「雨は尚盛んに降り、益々増水しつつあり」と書き立てた。
十三日には隅田川が決壊。この時の水害は天明以来の洪水で、明治四十年の大水害より甚だしい、と言われるが、溝口の被害状況は何故か判然としないが「川崎市史年表」は、「多摩川大洪水のため稲田村中野島地内の堤防が決壊し、同村から大師河原に至る市域村落の田畑数百町歩が水害を受ける」とある。
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