高津物語 連載第九五八回 「戦中の統制」
戦時中、我が家の周辺にも、大きな変化があった。
まず、第一の変化は、府中県道が出来たため、我が家の府中県道に面した北側の庭に、高津町役場の木造平屋一階の町会事務所が新設されたことである。
父は溝口第二町内会の町会長であったから、町会の人々の便利のために、事務所を作ったのか、他に目的があったのか、その辺は良く承知はしていない。
ともかく、米を始めとする配給切符とか、煙草の購入切符とか、その他役所の仕事を、森谷さんという下作延から通ってくる若い女性が一人で務めていた。
前にも書いたが、溝口の住居表示は大山街道二子寄りの一番地から始まる。昔は一番地からだったが、現在は一丁目一番地である。昔は一丁目の対面、三留桶屋さん辺りが溝口の最終番地――一二五〇番地だった。
ここが溝口第二町会で昔と変わっていない。
私はよく遊びに行き、森谷さんに、「事務所の下にイタチが居るが、知っているか」等と話していた。イタチは本当に住んでいたのだ。
『川崎市史』は生活必需品の統制のため、「政府は日中戦争勃発以来、国民生活安定のため、物価引き上げ禁止を断行、昭和十五年には、奢侈(しゃし)品の製造販売の制限等戦時物価対策を講じ」「米英撃滅のために全市民一丸、困苦欠乏に耐え、家庭も戦陣、生活を挙げて御奉公の誠を尽くせ!」の決戦生活訓の下、耐乏生活を送った。
即ち、昭和十四年末から地下足袋の切符制採用に始まり、昭和十五年十月までに繊維製品・米・麦・砂糖・マッチ・木炭まで、大きく不足した品目から配給統制が実施され、切符制が実施され、今にして思えば森谷さんはその専属の販売員だったのだ。川崎市は昭和十五年七月、砂糖・八月木炭・他衣料品の手拭・タオル・衛生綿・ゴム製布靴などの切符制を採用、米穀配給統制を実施した。
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