高津物語 連載第九六二回 「学童集団疎開」
昭和十五年四月頃高津小学校高等科生が、日本通信と日本光学に勤労奉仕に動員された。男子は戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻き、女子は、モンペ姿で働き、最後は登校しないで毎日工場に通勤した。
昭和十九年八月二四日、三年生以上の生徒三九二名、先生十人、手伝いの四人が神奈川県中郡高部屋(たかべや)村日向の浄発願寺に三・四年生、石雲寺に五・六年生が集団疎開した。現・伊勢原市日向、その学童疎開の記録が残る極めて貴重な物である。
田辺先生も「初めて親元を離れ、夜になると淋しくなり泣き出す子」「最初のうちは物珍しさで燥(はしゃ)いでいた子も日がたつにつれ、親元に帰りたくて、布団の上で涙を流している姿を見るのが何より辛い事だった」と言われている。「銃後を守る小国民」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つ迄は!」をスローガンに「大東亜共栄圏建設」「八紘一宇」(「宇」は屋根、世界を一つの家とする事。太平洋戦争下、日本の海外進出を正当化する為に用いた標語である)。
「学童疎開」はドイツ、イギリスでもあったという。
国防色のイエロー・カラーの服と帽子は同色の戦闘帽、女学生はモンペ型のスラックス。スカートやパーマネントは「非国民」と言われた。学生服の金ボタンは陶磁器製、鍋釜に穴が開くと鋲を打ち込む商売があり、駅前のタクシー・バスは木炭車に代わり燃料の木片を入れて炊き、もうもうたる煙が上がっていた。
お寺の鐘も供出した。
我が家の墓地の門扉も供出した為、今現在、門扉のないままである。
食料品・衣類・燃料が配給切符制に代わったのだが、本当のところは物がなかった。米は七分炊き、やがて皮の付いた玄米一皮を取ることで量の減るのをカモフラージュした配給制度や、大豆の搾り粕(油を搾り取った粕で、家畜の飼料)等が配給された。でも、まだあれば良しとした時代だった。
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4月26日