連載第一〇一一回 高津物語 「玉川砂利鉄道株式会社 第壱回営業報告書」
明治四一年二月一三日から同年五月三十一日迄の営業報告書を、文書整理の書庫で見つけ「営業概要」を見た。京橋に事務所を開設、砂利採掘船買収、採掘場を買入れたが調査頗る困難、意外な日数を要し欠損を来したが、将来は有望だと言い、全株主を列挙している。
溝口周辺の株主を挙げると…久本― 岡 重孝(医師、第一回高津町町長)
溝口― 岩崎次郎吉
久本― 三富慶次郎
溝口― 鈴木愛之助
下作延―鈴木芳三郎
溝口― 島崎惣兵衛
北見方―田辺庄右衛門
の七名に過ぎない。
筆頭の株主は、「アミガサ事件」の主役、御幸村上平間の、秋元喜四郎である。遠く西多摩郡三田村沢井下分の酒造「沢井」の小沢太平の名まで見える。
手元の川崎市史には「郊外電車が設けられると、市域北西部の農村は、その利便にあずかると共に、都市化の様相を呈してきた」とある。
まず多摩川の砂利運搬に着目して、明治三五年に設立された玉川砂利鉄道(代表、渡辺熊之進)は、同年玉川電車と改称し、同四〇年渋谷―玉川間の乗客、砂利運搬の営業を開始した。
この鉄道会社から同四四年に高津村が、大正一一年には向丘村が電灯用として、電力供給を受けるようになった。また昭和二年には「二子橋」を造り、渋谷、二子玉川の区間から、二子橋を渡って、溝口まで電車がつながるようになった。
電車道と道路を兼ねた二子橋は、東京都、神奈川県、及び玉川電車の協力で、工費五十万円をもって大正一四年(一九二五)七月に竣工した。橋の位置は十七・八二km、電車道は幅三・七五m、長さは十三・四五m、歩道は横幅二・七五m、全長は四四〇・〇一六m、橋脚は二三基と異常に多い。理由は関東大震災級の地震を想定して、橋の崩壊と流失を防ぐためであった。
世田谷区と高津区を結び、以前二子玉川園という遊園地があったので、二子玉川園駅といったが、今はなくなったので「二子玉川」といっている。
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