郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 第1話 その1 英 径夫さん
◇ご自身について教えてください
生まれたのは、東京の神楽坂。空襲で家が焼け、あちこち転々として、最後にたどり着いたのがここ。昭和20年の10月からこちらに来た。住んでいたのは二子の大貫病院の裏で、253番地っていっても今の人はわからないかな。逆に今の番地は知らない(笑)。子どもだったから細かいことは解らないけど、父親が戦時中、今の消防署の前のあたりの工場に徴用されていた関係でこの辺に来たんだと思う。
高津小学校には教室はあったんだけど、机なんかはオンボロになっちゃって、椅子もないんで、椅子と椅子の間に板を渡して、何人か座っていた。机の上も板を渡していたのがあったのかな、ひとりひとりの机じゃなかったね。
◇こちらに越してこられた頃の印象は?
東京からこちらに来る前に、2〜3カ月茨城にいたから、ここへ来たときも田舎とは感じなかったけどね。ただ、荒れているなぁ〜と思ったね。というのも、あちらこちらに焼夷弾のかけらが落っこちているし、壊れた家もずいぶんあるし。その前にいた茨城は、空襲にあっていないから、昔ながらの農家、田園風景だった。
いっぱい落ちている焼夷弾を拾ってきてドブ板の代わりに使ったりしてね。再利用していた。六角形の筒だったから、縦に渡して並べるとどぶ板にちょうど良いんだよね。
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4月26日