高津物語 連載第八二八回 「赤城神社誕生の経緯」
「赤城社」は『新編武蔵風土記稿』溝口村に「字上宿ニアリ村ノ鎮守ナリ勧請ノ年代ヲ知ラス本社二間ニ三間拝殿二間石ノ鳥居テ建共ニ巽ニ向フ神体ハ女神男神ノ二体ナリ其様男神ハ毘沙門ニ似タルモノニテ右手ニ玉ヲ持ツ女神ハ弁財天ノ如キ像例祭ハ八月十五日宗隆寺ノ持ナリ村内ノ社皆同シナリ末社トハイヘト自カラ一社ヲナス」とある。
赤城(溝口)神社保存の最も古い棟札は「宝永五年(一七〇八)武蔵国橘樹郡稲毛領溝口村鎮守赤城大明神造営」で、宗隆寺の僧「修禅院日清が造営修行した」ことが『溝口神社のいわれ』に記されている。
「宗隆寺僧修禅院日清」の事実関係を『宗隆寺略年表』(宗隆寺発行)で調べると「宝永六年・西暦一七〇九年(祖滅四二八年)宗隆寺十六世日清、上田氏に薦め紺紙金泥法華経を書写せしむ池上理樟院十六世」の記述が見え、さらに「十六世日清師は池上理境院の十六世にもなり、聖人号で呼ばれている。檀徒の上田氏をして妙経一部を書写せしめたが、巻首のみ上田氏筆であって、二枚目以下は各巻皆自筆で行儀正しく斉々認め、六の巻分別品一枚を以て終ったこと」が書かれている。(『改宗五百年を迎た溝口宗隆寺』昭和三十六年七月廿六日、住職島田堯存著、総代太田良海他九名)。
更に溝口神社造営の歴史的必然性は・・・・
宝永四年(一七〇七)富士山大噴火による人心の騒乱に求める事が出来る。
マグニチュード九以上の史上最大の地震が関東地方を襲ったのだ。
当時の文献は「十一月二
十日より、富士山の根方須
走口焼ける。天暗く雷声地
震おびただし(おびただし天)く、関東白灰降りて、雪の如く地を埋む。西南しきり(しきり地)に稲光あり。白昼暗黒の如くに成、行燈、桃灯を灯す。二十三日殊に甚し、二十四日天晴、こう(こう十)ひ(ひう)を拝して諸人安堵す。又二十五日・二十六日再び天曇り、砂降り、雷声の如き響き、地震あり。是より黒灰降。この時出来たる山を宝永山という。世人、がい(がい黒)そう(そう黒)(せき)を憂う」(『定本武江年表』(上巻)金井金吾校訂筑摩学芸文庫)
GO!GO!!フロンターレ4月26日 |
|
|
|
GO!GO!!フロンターレ4月19日 |
|
4月26日