高津物語 連載第八七一回 「樋口一葉の許嫁―渋谷三郎」
「思うこといはざらむは腹ふくるるてふたとえ」の脱却として一葉は「ふでに花なく文に艶なし」(一葉の日記『若葉かげ』)と謙虚に謙遜、明治五年から二十九年迄、僅か二十五年の天寿を全うした。
当時の女子教育の低さと貧困、小学校の教科も満足に修了せず、専ら中島塾での修学、熱心な上野図書館通いの読書、そして知人野々宮きく子の紹介で、明治二十四年四月、作家半井桃水を訪問する。
翌年六月二十二日桃水との婚約の風説が広まり、絶交する短い人生だった。
一葉に許嫁のあったことを最近知った。(一葉年譜には既に記載済み)
「明治二十二年一葉十八才に―事業は失敗に終わり三月、神田淡路町に転居。失意のうちに七月十二日午後二時病没した。死の近づいた父則義は、妻子の前途を案じ、渋谷三郎となつ(一葉本名)と結婚するように頼んだ。三郎は死期の迫った範義を安心させるために婚約した。九月、なつは芝西応寺町の寅之助の許へ、母とくと一緒に身を寄せた三郎は没落した樋口家から、間もなく遠去った」(現代日本文学全集、樋口一葉年譜)
許嫁の渋谷三郎は、自由民権運動の盛んな原町田出身。慶応三年生、一葉より五才年長。祖父は真下晩崧といい、一葉の父範義と同郷の甲斐国出身。石坂昌孝や村野常右衛門等に大きな影響を与えた人物である。
石坂らは明治十四年政治結社融貫社を結成、事務所は渋谷三郎の家に置いた。
三郎は明治十五年若くして自由民権思想にふれ、自由党に入党、南多摩自由党原町田連絡員として、溝口にも度々現れたらしい。
三郎は東京専門学校に入学、祖父真下と昵懇の一葉の父範義を訪れ、十四才の一葉と出会う。時に樋口一葉十四才である。
情熱的な自由党員、渋谷三郎に魅せられ、二人は許嫁の仲迄に発展した。
所が順調に行っていた一葉に不幸が訪れる。則義が事業に失敗、急逝した。
樋口家は一度に家産が傾き、零落の身となった。
その頃三郎は勉学の功なり、功利的で出世意欲が強く、一葉に破談を申し入れ、一葉はショックだった。
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