高津物語 連載第八八六回 「鎮守の森」
小学生の頃、下作延から通学する同級生に「もりや」という姓の子がいた。当時小学校は「高津小学校」だけだったから、森谷君は遠路溝口迄通学し、偶々雨が降り濡れた洋服で我が家の軒先に立った。「ウ寒い!」と体を震わせ雨宿り、それを母が発見、傘を持たせた。
一般に山小屋をモリヤという様だが『万葉集巻十』二一五六番に「足引きの山の陰陽に鳴く鹿の声きかずやも、山田守らす子」―山のいつも日影で、田の番をする連衆は、鹿の鳴き声を嫌でも聞いているよ―に出て来るモリと同じく、焼き畑等を見守り、番をする人という意味から来ている。
一般にモリは自然林で、人口のハヤシ(生やし)に対するもの―神は高地・高みに先ず降りるのが原則で「杜」の字を当て、手をふれることの出来ない、樹木に神が鎮まる考え方―「鎮守の森」を指している。
思い起こせば一万年も前、火山活動が活発で関東一円火山灰が積もったらしい。
それ以前は現在の大田区池上本門寺と横浜市鶴見区総持寺、それに川崎市高津区二子の三点を結んで出来た平地を「古東京湾」と呼んだが、二千年前頃(新生代・第三紀)の頃は、海水が多摩川や鶴見川の低地に沿って入り込み、溝口から下流の低地帯―小杉・平間・小向・川崎等は水深十メートル内外の浅い海となった事が学会の通説である。
東京湾に向かって七面山が雄々しく佇立していた訳で、大山街道は言うなれば、海と陸地を分ける海岸線を走っていたこととなる。
『武陽玉川八景図』に描かれている大山街道の下が省略されていないのは描く必要がない東京湾だった。
今度改めて八景図を見て七面山が実に明確に、一番手前に書かれているのを発見し、嬉しかった。
「谷戸の手前台地に寺有山林七面山がある。厚木街道の右側では七面山の頂上までが溝口、左側は二百米先の片町十字路迄溝口だ。
考古学の発見の歴史は輝かしいものがあるが、久地淨元寺裏の横穴古墳、上作延赤城神社前から直径三寸余、厚さ一分の古鏡一個、直刀、勾玉を掘出した」と『新編武蔵風土記稿』にある。
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