高津物語 連載第八八七回 「『新編武蔵風土記稿』から」
「高津物語」は独自の新説として、津田山と緑ヶ丘霊園は元来一つの丘陵であったこと、そして何時の頃か判然としないが、多摩川の大水の時に濁流が津田山と緑ヶ丘霊園の合体していた丘陵の真ん中を削り貫く様に押し流して貫流した。
その結果それ以降、現在の津田山と緑ヶ丘霊園の二つの丘陵に分離してしまった、と考える。久地の南の丘にも淨元寺もちの久地赤城神社がある。上作延村にも赤城神社があり「村の東により本社一間四方前に七級の石階ありてその下に拝殿あり、三間四方にして南向きなり。鎮座の年代を伝えず今村内の鎮守なり神体は毘沙門を本地として祀れり」と『風土記稿』に書かれている。更に赤城社の隣に延命寺があり「此二ツノ菴ヲ合セテ一ノ坊トシ菴主ヲシテ赤城ノ社務ヲ司ラシメケリ」と『新編武蔵風土記稿』上作延村に書かれる。
群馬県には「赤城神社」の名称を持つ社祠は七十八社もあるといい、上毛野国(群馬県)中央部、一段と高く聳える赤城山の南麓に鎮座している赤城山(勢多郡宮城村三夜沢にある神社で旧社格は県社)が本源だという。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと―大国主命の別名)と豊城入彦命(『古事記』では豊木入日子とある。)は父天皇の銘により関東統治の為東国に派遣された方で、上毛野の君、下毛野の君などの祖となられた方である。
赤城神社のある赤城山には次の様な伝説がある。昔、日光の二荒山の神と赤城山の神が、中禅寺湖は下野国のものだ、上野国のものだと言い争い、遂には戦になってしまった。
初めは赤城山の神の方が優勢であったが、二荒山の神は鹿島の神の助言により、小野猿麻呂という弓の名人の加勢によって反撃に出た。そして二荒山の神は蛇の姿となり、赤城山の神は百足(むかで)の姿になって戦ったが、赤城山の神は猿麻呂の矢で右目を射抜かれ、やっとのことで山へ逃げ帰る事が出来、老神温泉で傷を癒したという。
この両山の神が戦ったのが日光中禅寺湖畔にある戦場ヶ原であり、日光の二荒山神社では今でも年に一度、赤城山に向かって矢を射る神事がある、という。
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