高津物語 連載第九六四回 「疎開した四十万冊」
川崎や高津の話ではない―東京日比谷図書館の話。
日比谷図書館は明治四一年(一九〇八)開館、東京の中心館として機能を果たして来た。行かれた方も多いと思う。
終戦も間近の一九四四年(昭和十九年)から翌年に掛けて、日比谷図書館の蔵書四〇万冊が戦禍を逃れるために疎開をした。
図書館員を始め、都立一中(日比谷高校)の中学生達が、リュックや大八車を押して、五〇キロ離れた奥多摩の多西村(現あきる野市)や埼玉県志木市に、何回となく足を運んだ。
一九四四年、新しく館長に就任した中田邦蔵を中心に残る蔵書、凡(おおよ)そ二六万冊の疎開が検討された。それを運ぶ人手もなく、府立一中二六人が動員された。更に中田は、民間人が収集している貴重本を買い上げ、疎開させるべきと提案、諸橋徹次、加賀豊三郎、井上哲次郎等から貴重本を買い上げて疎開させ、そして、運命の昭和二〇年五月二五日の大空襲で蔵書約二十一万冊は、図書館と運命を共にし、塵芥(じんかい)と化す。
食糧事情の最悪の時代、苦しかった事だろう。
何度図書を投げ捨てようと思った事だろう。
もし仮に日比谷図書館の四十万冊の蔵書が疎開してなければ…。日本文化の多くは失われていた筈である。戦争は人々の直接的ダメージを与えるだけでなく、民族の尊厳や文化を根こそぎズタズタに破壊する。本――書籍を否定する事は、人間を殺傷する事とどれ程の違いがあろうか? 自分の命を守り生きるのが精一杯だった戦中に、多くの人達が辛い過酷な体験をしながら文化を守った。歴史上例を見ない四〇万冊の疎開―それらを救った人達の汗と涙。この史実を一人でも多くの人達に伝えることは、醜い戦争を、二度と、絶対に繰り返してはならないという、恒久平和の願いに通じることだ、と思う。次世代に繋がる文化の継承と平和の尊さが、幾重にも伝わることを、願わずにいられない。
映画『疎開した四十万冊の本』の監督金高謙二さんのコメントである。
十月中旬、高津図書館で「図書館」に関する講演が予定されている。
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