高津物語 連載第九九六回「大山街道と地域医療」
一六五七年(明暦三年)一月十八日に起こった江戸時代最大の火事は、本郷丸山町から出火した「明暦の大火」で、死者十万人を超えた。
供養のため焼かれていた振袖が強風で舞い上がり本妙寺の屋根に燃え移った。
この大火で三階建ての櫓形の建物が禁止となり、それに代わって蔵造りの土蔵が多かった。灰吹屋・田中屋・多奈屋呉服店・岩崎酒店・稲毛屋金物店・丸屋酒店・内田屋・池田屋・甲州屋・大貫病院・鈴木無線・飯島金物店・平間屋質店・川屋等々の蔵造りであった。
蔵造りは、街道に建ち、それはまるで富と安全の象徴のように、大山街道を行き来する旅人を睥睨(へいげい)していた。
国交省の道路マップ造りに参加した頃、大山街道溝口の建物の連続と、均整の取れた街並みを、見事だと言って礼讃されたことがあった。こちらは少々照れ臭かったが、それでも、褒められれば悪い気はせず「そんなものか」と思って、一人でほくそ笑んでいたことがあった。それにしても、室町時代から江戸期に至る時期、多くの町医者が、大山街道沿いに、集まって来た。町人から侍になるのと違って、江戸の医者には資格試験もなかったから、川柳に「薬屋に毛の生えた奴頭そり」と手合いの、にわか医者が、あちこちに出没したらしいが、大山街道二子・溝口宿に限っては、そんなことは微塵もなかった。天正十八年(一五九〇)北条氏が小田原で征伐され秀吉の全国統一、家康の関東移封の後、江戸城入城と慌ただしい行事が続いた後八月二五日に多摩川の大洪水が起こった。それまで多摩の横山の直下を流れていた多摩川が、突然流路を北に変え、水が引くと「大山街道」が整備され、人々が徐々に住み始めて二子宿と溝口宿に人が集まりだした。
水の引けた「ねもじり坂」の雑貨商「港屋」太田道一が、大山街道片町に居を構え、独学で医学を学び、文政八年(一八二五)に江戸小石川三百坂の手塚良仙光行の元に入門する。輝かしい大山街道医療の夜明けを以下詳細に語ってみたい。
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