連載第一〇一五回 高津物語 「日本橋丸善」
「日本橋丸善」が元は医者だったとは、今日まで私は知らなかった。
大学を卒業して一年間、東京の私立高校で専任教員を務めたことがあった時に日本橋「丸善」で書籍を購入しては、月末に支払いに行っていたから、馴染みの筈だが知らなかった。
「丸善」の創業者は、丸屋善七こと早矢仕有的(はやし ゆうてき)という蘭方医だったそうだ。
天保八年(一八三七)美濃国(今の岐阜県山県郡)武儀郡笹賀村に生まれた。
長じて医学と蘭学を学び更に名古屋に出て、鈴木洋造に医学を学び、嘉永五年(一八五二)に郷里で種痘を行ったという。
この縁で郷里で開業したところ、患者の一人から素質を認められ、江戸へ行く資金援助を受けた。
文久二年(一八六二)開業、慶応三年(一八六七)二月築地福沢塾に入門、三歳年上の福沢諭吉から英学を学んだ。翌年八月横浜に検梅所ができ、英医ニュートンの下で働いた。この時、医薬品の調達に苦労(偽物をつかまされる苦労が多かった)、一転これがきっかけになって、商社を作る決心をした。後ろ楯は福沢諭吉だった。
明治二年(一八六九)丸屋はマルの中にMの字を入れて、手始めに医薬品と洋書輸入から経営を始めた。更に診療所・薬局も開き、医薬分業までして日本人に欧米の仕組みを教えた。
後に洋書販売・出版・薬品卸・唐物屋・石鹸製造・西洋指物・銀行と次々と事業を拡大したが、新しい物好きで、ムラッ気が多く、多くの事業は他人に譲渡してしまっている。O型の血液型だったのかもしれないと思う。
有的が江戸で開業したのは、両国橋近くの薬研堀だった。年七百両の収入があったにも拘らず、僅か五年足らずで廃業している。
有的の跡を継いだのは種痘で有名な桑田立斎の養子、衡平だった。
薬研堀に住み、明治十二年(一八七九)『医戒』という雑誌の編集者となった(以上『東海道医史の旅』―江戸東京編3「丸善の巻」中西淳朗氏の文章を参考させて戴いた)。
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