連載第一〇二五回 「多摩川の洪水対策」 高津物語
首都東京市内の建築工事に必要な多摩川の良質な砂利や砂の運搬のために、玉川電気鉄道が一九〇七年(明治四〇年)三月六日に渋谷の道玄坂上―三軒茶屋間がまず開業したが、それ以降十五年間、動きが停止してしまう。
理由はいろいろあるが、まず明治四〇年、明治四三年の再度にわたる多摩川の大洪水で、甚大な被害を沿岸流域に与えた。
『稲毛川崎二カ領用水事績』には「沿岸両郡三ケ領の地物見渡す限り濁流に侵されて、人も家も宛(さなが)ら泥に酔う鮒の如し」の記述が見える程であった。
元来、多摩川は国庫支弁の河川であったが、明治十三年明治政府は財政難を理由に、治水の国家支弁を打ち切り、地方負担に転嫁する方針をとったため、その治水費も地方負担となった。明治四三年には、政府は、洪水頻発とその被害の増大をかんがみ、臨時治水調査会を設置して国の直轄河川を選定し、その工事規模と施工順序を決めた。その結果、全国の主要河川十八をを選んでこれを十八カ年で改修する方針を立てたが、多摩川はこの第一期河川からは除外されて第二期河川となった。このため第一期河川の工事が終了しなければ、国の直轄事業として実施されないこととなった。
ところが、大正三年八月、またも多摩川は二丈余の増水という洪水に見舞われた。この時水防訓練中危うく一命を失いかけた村会議員秋元喜四郎の「アミガサ事件」で、「多摩川築堤期成同盟会」が結成され多摩川改修運動の大正期における出発点となった。
神奈川県議会も中村瀬左衛門議員らによって多摩川築堤建議が満場一致で可決されたのを機に、県会で国家支弁に関する建議案が成立、この運動で大正六年初頭、政府は、多摩川改修工事は東京府・神奈川県で工事計画を進めるならば、その経費の半額を補助するという方針を明らかにした。現在の多摩川堤防も大変な努力の末に出来た。
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