テノール歌手として国内外で活躍する新垣勉さん(64)は、今年で歌手生活37年を迎え、その半生は教材として中学生の英語の教科書にも綴られている。
沖縄県読谷村で、在日米軍人だったメキシコ系の米国人の父と現地の日本人の母との間に生まれた。出産時に助産師に誤って家畜用の薬で目を洗われ、失明した。
父は1年で帰国し、再婚した母を「ねえねえ(姉)」、祖母を「おかあ(母)」と言い聞かされ、祖母の元で暮らしていた。
祖母は音楽の師
祖母が料理や洗濯をしながら口ずさんでいた沖縄民謡「てぃんさぐぬ花」は思い出の歌。「祖母は一番初めの歌の師匠。辛いときや悲しいとき、うれしいときも歌で癒されることを教えてくれた」と話す。
ラジオが好きで、有線放送から聞こえてくる沖縄民謡や歌謡曲、ジャズやポップスを流れるままに聞いては覚えた歌を歌っていた。近所では、数軒先の住民からラジオ音源と勘違いされるほど、幼少期からよく歌を褒められていたという。
同時に、歳の近い子ども達からはアメリカの血が混ざっていることを理由に石を投げられ、いじめにもあっていた。「近所のお兄ちゃんが助けてくれましたけどね」と懐かしむ。
中学2年生の時、祖母を亡くし天涯孤独となり、近所の住民から出生について知った。「目も見えず親もいない。なぜ自分だけがこのような重荷を背負わなければいけないのか」。自分の運命を恨み、死ぬことも考え、井戸に飛び込もうとしたところを通りがかった友人に止められたという。
その後、いつものように聞いていたラジオから流れた讃美歌に惹かれ、教会へ足を運んだ。高校1年の夏休みにキャンプに参加すると一人の牧師に出会った。
「アメリカに行って父を探し出して殺したい」。これまでの生い立ちや父への憎しみを打ち明けると、牧師は何も言わずに涙を浮かべて話を聞いていた。
「自分のためにそこまで想って涙を流しくれる姿に、自分は生きなきゃいけないと思った」と振り返る。
この出会いをきっかけに、人の役に立つ仕事として牧師を志す。高校では鍼灸の資格をとるコースしかなかったが、音楽の道をあきらめることができず、東京キリスト教短期大学の神学科に入学。本格的な音楽の勉強を始めた。
憎しみを感謝に
大学卒業前に、世界的に有名なボイストレーナーと出会った。ラテン的な明るい響きの声の訳を聞かれ、父の話をすると、「この声はお父さんからのプレゼント。一人でも多くの人を励ますために磨きなさい」とレッスンを受けることに。
「オペラを歌うために自分はラテン系の骨格が与えられた。恨んでいた父にも感謝しなきゃいけない」と徐々に自分の存在を受け入れるようになったという。
大学卒業後は、巡回伝道師として右手に1本の杖を握りしめ、各地の教会や病院、学校で歌いながら布教を行った。巡回先で患者を集め、マッサージで旅費を賄ったこともあった。
34歳の時、声楽を基礎から学ぶため武蔵野音大声楽科へ。2001年には「さとうきび畑」でCDを発売。沖縄に生まれたアーティストとして世界平和のメッセージを発信し続けている。
出会いが心の糧
「人生は出会いで決まる、変わる、成長する。これまでの出会いが心の栄養となっています」と話す。
小学生時代、音楽の授業で暗譜の宿題を忘れ落ち込んでいると上級生から「音を頭に叩き込めれば歌えるよ」とベビーオルガンの練習をすすめられ、絶対音感が身についた。
また、英語教師からは「舌を出してごらん。父親を恨んでいるだろうけど、その長い舌は語学に向いているからきっとうまくなるよ」と励まされ、初めて英語の成績で「5」を取った。
「この人と出会ってよかったと思われる人になりたい」と現在も公演を精力的に行っている。
「自分の人生は太平洋戦争がなければこの世に生まれていなかった。音楽を通じて沖縄と日本、沖縄と世界をつなぐ平和の架け橋になりたい」と微笑む。
人を笑わせることが好きで、生協を会場にした公演では「生協だけに大盛況ですね」と表音文字である点字で培われた得意のダジャレで会場を笑顔に包んだ。
その瞳に映すことはできないが、自宅のレッスン室のピアノの上には父の写真が飾ってある。父の写真は中学生の時に一度祖母にもらったが、その場で破り捨てたという。飾られた写真は親戚が保管していた最後の1枚だ。「DNAが違うように一人ひとりが違う。人と比べることがどんなに愚かなことか。自分の人生に感謝し、人の役に立てていければ」
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