戦後75年が過ぎ、あの惨劇を語り継げる人が少なくなってきている。西谷町に暮らす三澤玉江さん(87)は当時、小学5年生だった。本紙では「後世に伝えよう」と三澤さんが執筆した手記を3回にわたり紹介する。
家族みんなでひと眠りした頃、突然、鳴り響く空襲警報のサイレン、近くの山裾に隣組皆でコの字型の横穴防空壕を幾日もかけて掘ってあったそこに、家族皆、素早く身支度をして避難しました。父は家を守るといって残り、私たちは、近所の隣組の人と真っ暗な道を壕に走って行きました。そこはお寺の墓地のすぐ横で今ではとても夜など通れないほど暗く恐ろしい場所でしたが、当時は無我夢中で逃げて壕に行きました。
気味悪いほど静かな夜にB29の爆音だけが気味悪く響いていました。その後爆撃機の恐ろしい音や遠くで大砲の音が響き、空には敵機を見つける光線(探照灯といっていた)が何本も交差していました。逃げていく私たちにも反射してしまいそうで大変怖い思いをしました。だんだん爆弾の音や飛行機の音などが険しくなり、壕の中では小さな子どもが怖がって泣き出し、敵に気付かれては大変と親達が叱りつける声が聞こえ、寝たきりだった病人も背負われたり、戸板に載せられたりして避難してきていたので、その匂いや泣き声、また、何処からともなく無事を祈って「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱える声が聞こえ、皆で身を寄せ合い、堅くなって我慢していました。今思い出しても身体が堅くなってしまいそうに緊張してしまいます。
終戦になるまでには数えきれないほど避難した恐ろしくて、長いつらい毎日でした。
ある日壕に、5年生だった私、2年生だった妹が家族より一寸遅れて壕に向かう途中敵機から”ダダダダー”と機銃掃射で撃たれそうになり、素早く横の小川近くの草むらの中にもぐりこんで姿を隠して、銃音と敵機の音が静かになるのを待ち、また2人で壕に一目散に飛び込みました。
その時ばかりは声が出ない位恐ろしく、今でも思い出したくない、つらい、つらい記憶です。
幾日かはよく覚えていませんが、横浜の中心が大空襲にあった日、私の家は国道16号沿いに在ったので、家の前の道路を焼け出されて逃げ帰って来る人がたくさんいました。身体中真っ黒に汚れ、どの人か判らないほどひどい姿でした。荷車を引く人、よろよろ歩いて来た人、ただ黙って西の方にぞろぞろ歩いて皆、真剣な顔をしていました。子ども心に可哀そうと思ってじっと見つめていました。中に拾った布団らしいものを身体に巻きおさえて、歩いてきた人、腕の皮膚がたれ下がった人などがいて、顔は真っ赤で火の中を逃げてきたのかと、見ても恐ろしい姿でしたが、一寸笑みを浮かべていて、その時はどこのお兄さんか判らなかったが、すぐ近くのお兄さんでした。家の近くにたどり着いて、ほっと、されたらしく、皆、苦しいのも痛いのも我慢して歩いて帰って来たようでした。あとで聞いたところ火傷の手当をする薬も無く本人もお母さんも大変苦労されたと聞きましたが、でもその後きれいに治って結婚されたので子供心に良かったと思ったのでした。 (了)
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