神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
港北区版 公開:2015年8月13日 エリアトップへ

「戦後70年」企画 港北で何があったか? 区内の歴史研究者に聞く

社会

公開:2015年8月13日

  • LINE
  • hatena
資料展の展示物と平井研究部長
資料展の展示物と平井研究部長

 第2次世界大戦終結から8月15日で70年を迎える。節目の年ということもあり、巷間、改めて同戦を振り返る機会が増えているが、港北区内では何が起こっていたのか。区内の歴史・文化研究の主要機関である大倉精神文化研究所の平井誠二氏に話を聞いた。

 平井研究部長によると、第2次世界大戦中の港北区内には海軍施設が点在していたことが分かっている。

 師岡町の山の南側斜面には、1943年頃に横穴が掘られ、洞窟の中に海軍省の図書庫が置かれた。入口には図書閲覧所も設置され、この建物は戦後の52年まで大綱小学校の師岡分教場として使用されていた。一般的に知られているのが慶応大学日吉キャンパスの地下壕。44年7月から堀削が開始され、連合艦隊司令部などが移転、任務を遂行していた。さらに大倉精神文化研究所本館は、44年9月から45年8月まで海軍気象部が海霧の研究と当時の敵国の米国とソ連の気象電文の暗号解読をしていた。

 平井部長は「当研究所は高台にあり、電波が受信しやすかった。気象情報は戦時中重要機密であり、私たちの調査によると、軍人、技術者など130人以上がここで任務に就いていた」とし、海軍が区内に移動してきた理由を「首都東京への攻撃を予想し、当時郊外だった港北を安全と考えたのではないか」と予想している。

空襲での被害

 空襲に関しては、横浜の空襲を記録する会による「伝えたい 街が燃えた日々を」に詳しい。44年12月25日に樽・南綱島から始まり、翌年7月28日の太尾(現大倉山)まで断続的に続き、死傷者も出ている。特に被害が大きかったのが5月29日の横浜大空襲時。当時太尾には300戸余の住宅があったが、そのうち70戸余が焼失したとの記録がある(同研究所調)。

縁故疎開も盛ん

 縁故疎開も盛んに行われた。農村部だった区内には都心部から縁故疎開の児童が多数訪れ、大綱小学校では44年7月で1千人の児童数が同年秋ごろには2千人に増え、分教場などを導入。同年8月になると集団疎開が始まり、神奈川区の斎藤分国民学校の165人の児童が、小机の本法寺、鳥山の三会寺に疎開。この中には女優の草笛光子さんもいたという。一方で日吉台国民学校(現・日吉台小学校)の3〜6年生は高田の興禅寺に70人、下田の真福寺に100人集団疎開している。その後、海軍省人事局が同校へ移転しており、それが疎開理由でないかとの推測がされている。

 戦後米軍に接収されたのが慶大日吉キャンパスなどだが、意外なことに岸根公園の一部も朝鮮戦争を機に50年から5年間接収されていた。同公園の一部はさらに57年から66年まで自衛隊が高射砲陣地として使用していた。平井研究部長は「岸根公園を見てわかる通り全てが『戦後70年』ではない。戦争を知るには体験者の話を聞くこと、資料を読み正確に全体を把握することが大切」と力説した。

 同研究所では9月26日まで資料展「大倉山の海軍気象部」を実施している。
 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

タウンニュースの各発行エリアで企画・編集した関連記事まとめ

http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

港北区版のトップニュース最新6

「ふるさと」感じる街

港北区運営方針

「ふるさと」感じる街

区民と共にあゆむ区政

5月23日

耐震適合率は7割

横浜市主要水道管

耐震適合率は7割

国の調査、全国平均超え

5月23日

42年ぶり 県の頂点に

武相高校硬式野球部

42年ぶり 県の頂点に

「雑草軍団」関東へ臨む

5月16日

家庭との連絡法を統一

横浜市立学校

家庭との連絡法を統一

アプリ活用で新システム

5月16日

DX対応でサイト新設

地域子育て支援拠点

DX対応でサイト新設

6月開始のアプリと連携も

5月9日

文科大臣表彰を受賞

北綱島特別支援学校

文科大臣表彰を受賞

五感で“読む”読書実践

5月9日

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 4月20日0:00更新

  • 2月18日0:00更新

  • 6月25日0:00更新

港北区版のあっとほーむデスク一覧へ

イベント一覧へ

バックナンバー最新号:2024年5月24日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook