鎌倉と源氏物語 〈第8回〉 父・時氏の死 第4代執権経時と第5代執権時頼
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
1230年3月、松下禅尼の夫時氏は6年間の京都・六波羅探題北方の任を終え、経時・時頼兄弟の一家は鎌倉に帰ることになります。この様子も藤原定家の『明月記』に記されていて、一家との交流の深さがうかがえます。ただ、見送りに出たのは定家の子息の為家でした。高齢の定家の代理だったのでしょう。
夜明け前に東海道へとつながる「京の七口」のひとつ、粟田口から先陣が、時氏本人は夜明け後に直垂を着て馬で出発しました。付き従う家来は三百騎もの威容さで、7歳になる経時も「小さい馬に乗って従った」とあります。
松下禅尼や時頼の動向は記されていませんが、当然一行の中にいたはず。当時、4歳の時頼や弟の時定は母松下禅尼たちと一緒だったのでしょう。またこの時、松下禅尼は檜皮姫を懐妊しています。
時氏の帰還は、第3代執権泰時の任務を引き継ぎ、次期執権になるためのいわば下準備。しかし旅の途中、今の愛知県豊川市のあたりで病気になり、病状は悪化。4月に鎌倉に到着したものの、泰時や松下禅尼の必死の看病や願いも空しく、6月に亡くなります。亨年28歳でした。
夫の死を受けて松下禅尼は出家し、実家である甘縄(鎌倉駅西口側)の安達景盛邸へと帰ります。そして舅・泰時に助けられながら経時・時頼という将来執権になる2人の男子や、時定・檜皮姫たちを育ててゆくのです。
織田百合子
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