鎌倉と源氏物語 〈第12回〉 北条実時と風光明媚な六浦・金沢八景
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
北条実時が父・実泰から六浦を継いだのは11歳の時、 実泰の突然の自害騒動のためでした。忍性が六浦に滞在し交流したとされる1258年頃には、実時は30代半ばになっています。
実時は幕府の重鎮ですから、鎌倉にある本宅に加え六浦に別邸を持っていました。そしてこの六浦を宋の杭州に見立てようとします。実時は宋との交易で利益をはかっていたので、杭州の風光明媚なことを宋から帰った商人や僧から聞いていたのでしょう。
具体的には、七千帖もの宋版一切経(仏教の経典の総称)を2組請来し、その1組を忍性の師・叡尊がいる奈良西大寺に、もう1組を称名寺に寄進しました。それは現在、金沢文庫に所蔵されています。
また、称名寺にはかつて実時が杭州西湖から取り寄せたという西湖梅という名木があったほか、金堂の本尊弥勒菩薩立像は華麗な宋風のみ仏でいられます。このように六浦では、実時の趣味を反映して 鎌倉中心部とは違った趣の文化が広がっていたのです。
有名な歌川広重の浮世絵「金沢八景」は六浦が舞台です。中国の瀟湘八景にならったもので、「称名晩鐘」「小泉夜雨」「乙艫帰帆」「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「平潟落雁」「野島夕照」「内川暮雪 」と、ここに称名寺の鐘が入っています。実時以来の「景勝地六浦」の評判が江戸時代にも伝わっていたことがわかります。
織田百合子
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