鎌倉のとっておき〈第26回〉 鎌倉の「水」今昔と黄門様
人々の生活に欠くことのできない「水」。現代では蛇口をひねればおいしい「水」をいつでも安心して飲むことができるが、その道のりは、遠く富士山麓や丹沢山塊を源とし、相模湖や宮ヶ瀬湖などを経由して、はるばるこの鎌倉の地まで旅してくる。
中世鎌倉では、良質な「水」は鎌倉が海に近く標高が低いことや、地下地盤(凝灰岩層)の構造などから、手軽に手に入る代物ではなかったようだ。戦前までは、壽福寺付近に「水屋」という家があり、壽福寺境内の山からの湧水を集め、鎌倉の町を売り歩いていたとも聞く。
市内の発掘調査では、たくさんの井戸が集落の多かった若宮大路や今小路周辺で発見されているが、こんこんと清水が湧き出るものというと、「銭洗水」(佐助)をはじめとする「五名水」や、「十井(じっせい)」(10箇所の井戸)と呼ばれる井戸があげられる。
江戸時代(17世紀後半)、水戸藩主であった徳川光圀公(水戸黄門)は、『新編鎌倉志』の中で「鎌倉に五名水あり」と記しているほか、『鎌倉日記』では、「十井」のうちの「泉の井」(扇ガ谷)について、「泉井谷ノ辺ニ潔キ水湧出ル也」と記すなど、鎌倉産のおいしい「水」に親しんでいたことがうかがえる。水戸藩との縁深き英勝寺を宿に、壽福寺付近の山から海を眺めながら酒食を楽しんだとの記録も残っている。
諸国漫遊の旅をした「黄門様」も訪れた鎌倉の地。時代は移り変わり、今では富士山麓から旅してきた清らかな「水」が、ここに集い生活する人々の暮らしをうるおしている。
石塚裕之
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