鎌倉と源氏物語〈第26回〉 第八代将軍久明将軍の鎌倉下向
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
いよいよ第八代将軍久明(ひさあきら)親王が下向されます。後深草院二条はそれも見物に行きました。若宮大路はすでに大変な人出です。やがて、「はやこれへとて」と、久明親王が差しかかられる時刻に到り、小舎人(こどねり)たち20人ほどが慌ただしく走って行きます。その後を直垂(ひたたれ)姿の大名たちが5、6町も続いたかと思われる後に、女郎花の襲(かさね)の色目の浮織物(うきおりもの)の御下衣(おんしたぎぬ)をお召しになった将軍が、御輿(みこし)の簾(すだれ)を上げて通り過ぎられました。
二条は後深草院の皇子を産んでいますから、将軍は我が子とは腹違いの兄弟になります。みずからの人生に色濃く刻まれている後深草院その人の皇子を目の当たりにして、二条の思いはどんなだったでしょう。
久明親王は14歳から33歳までの約19年間、鎌倉の将軍として君臨されます。その間に歌の師である冷泉為相(れいぜいためすけ)の娘を側室に迎えました。為相は訴訟のために鎌倉に下ってきた『十六夜日記』の作者・阿仏尼の子です。阿仏尼亡き後為相が下向し、鎌倉で僧侶や武士たちの歌の師を務めるなど広く交流しました。阿仏尼は「青表紙本源氏物語」を作った藤原定家の子の為家の後妻ですから、為相は定家の孫。つまり、定家の曾孫が久明将軍の側室になったということになります。 織田百合子
|
|
|
|
|
|