鎌倉のとっておき 〈第99回〉 源氏の御曹司(おんぞうし)に仕えて
源頼朝亡き後、鎌倉幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に安達盛長がいた。盛長は、頼朝が罪人の子として伊豆に流された時からの側近だった。
1180年頼朝が平氏討伐に挙兵した後も頼朝に従い、その良き相談相手となり、幕府の基盤づくりに大いに貢献した。
盛長を初代とする安達氏は、幕府創設以降も有力な御家人として幕府運営の中枢にあり、特に二度の蒙古襲来(元寇)の際には、御恩奉行(恩賞担当)として、当時の8代執権・北条時宗を支え、御家人たちの信頼を得ていたという。
時宗亡き後、安達氏は14歳で9代執権となった北条貞時を支えた。物流を円滑にするために河川の通行税等の徴収を禁止したり、幕府とともに蒙古軍と戦った武士以外の人々を新たに御家人とするなど、幕府の政策を実行していったのである。
初代の盛長にはこんなエピソードがある。伊豆にいた頼朝は、自分のお目付役の北条氏に大層美しい姫がいることを聞き、自ら書いた恋文をその姫に渡すよう盛長に頼んだという。実はその姫とは、かの北条政子ではなく政子の妹であったが、盛長はその恋文をなぜか姉の政子に渡してしまったというのである。
その結果、頼朝と政子は結ばれ、約150年も続く武家政権が確立したことを思えば、鎌倉武士の時代を創った最大の功労者は、二人の恋のキューピッド役を果たした、この盛長だったのかもしれない。
石塚裕之
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