鎌倉のとっておき 〈第101回〉 鎌倉で舞い踊る
鎌倉に縁(ゆかり)の舞といえば鎌倉期の「白拍子の舞」がある。この舞は、烏帽子姿の女性が太刀を差すなど男姿になって舞うものだが、その名手が源義経の愛妾、静御前であった。吉田兼好の『徒然草』には、この舞は静御前の母から始まったとも記されている。
静御前は、源頼朝に捕らわれた後、頼朝の所望により鶴岡八幡宮で舞った際、「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と気丈にも義経への恋慕を歌って頼朝を激怒させたが、妻の政子のとりなしでお咎(とが)めなく済んだという。
また鎌倉後期には、時宗の開祖、一遍が念仏を唱えながら鉦(かね)・鼓(つづみ)・笛の拍子に合わせて踊り歩く「踊念仏」を人々に伝えている。
一遍にはこんな逸話が残る。一遍が布教のために鎌倉へ入ろうとした際、ぼろぼろの衣を纏(まと)ったみすぼらしい姿だったため、悪党とみなされて鎌倉へ入ることを許されなかった。そして、やむなく野宿した地に今の光照寺(山ノ内)が建立されたというのだ。
時を経て、「白鳥の湖」などで知られる「クラシック・バレエ」。ロシア革命の混乱から日本へ亡命してきたロシア人のエリアナ・パブロバは、1927年、日本初のバレエスクールを七里ヶ浜に開設した。このため、パブロバは「日本バレエの母」と呼ばれ、鎌倉は日本のバレエ発祥の地とされている。
多様な舞や踊りの舞台となった古都鎌倉。芸能にも懐(ふところ)深いまちである。
石塚裕之
|
|
|
|
|
|