鎌倉のとっておき 〈第109回〉 大寺院と天下取りの城づくり(二階堂氏)
源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に二階堂行政(ゆきまさ)がいた。
行政は、1189年奥州藤原氏の征伐(奥州合戦)では、軍(いくさ)奉行として戦陣で総指揮を執る一方、財政や市中の訴訟等を扱う政所(まんどころ)の別当(長官)として、幕府運営に参画した。
元々公家だった行政は、初めは藤原の姓を名乗っていた。しかし、奥州合戦後、頼朝が平泉の中尊寺(二階大堂)を真似て造ろうとした永福寺(ようふくじ)(二階堂)の造営奉行(工事責任者)となった後、行政がこの二階堂の地を拝領したことから、その地名を姓として名乗るようになったという。
宿老としては、政所の中枢として幕府を支え、行政亡き後は、その子息が政所の執事(上級役人)の職を世襲して幕府運営を支えていった。
また、宿老13人の合議となった幕府では、西(京都の朝廷等)への防御として、稲葉山(岐阜県)に砦(とりで)(城)を築くこととしたが、その築城をしたのが行政であった。この城こそ、後に戦国の武将、斎藤道三や織田信長が居城とした稲葉山城(岐阜城)の原形である。道三や信長の時代には、この岩山にそびえる城は難攻不落で知られ、「美濃を制すものは天下を制す」といわれた名城であった。
行政からすれば、自らが築いた城が、後に「天下布武」を唱え、全国統一に迫った信長の居城として生まれ変わろうとは、夢にも思っていなかったことだろう。
石塚裕之
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