鎌倉のとっておき 〈第112回〉 鎌倉と荘園〜山内荘(やまのうちのしょう)〜
紫陽花が見頃を迎えた北鎌倉。かつてこの地は山内荘という荘園が広がっていた。山内荘は平安時代に立荘され、山内首藤氏という一族が管理していた。
山内首藤氏は、鎌倉幕府草創という時代の変化に飲み込まれ、いつしか山内荘を失ってしまう。
後にこの地を与えられたのが、北条得宗家(嫡流)だった。北条得宗家は荘内に自邸を構え、中国より禅僧を招いて、建長寺をはじめとする禅寺を次々に建立していった。現在、北鎌倉一帯に多くの禅寺が集まる理由は、得宗家領だったことにある。
鎌倉幕府滅亡とともに、山内荘は北条得宗家の手を離れた。室町時代にこの地を所領としたのが、足利氏の親戚、上杉氏である。
上杉氏は鎌倉で勢力を伸ばし、山内・犬懸・扇谷など、鎌倉の地名を冠する諸氏が繁栄していった。中でも山内上杉氏は関東管領に任命されるなど、一族の中心的な役割を果たした。
しかし室町時代の鎌倉は戦乱が相次ぎ、山内上杉氏は上野国(群馬県)に移ってしまう。ちなみに山内上杉氏の名跡を継いだのが長尾景虎(後の上杉謙信)である。謙信は小田原北条氏討伐のため関東に出兵し、鶴岡八幡宮で関東管領の拝賀式をおこなったという。
このように山内荘は、歴史の表舞台で活躍した一族ゆかりの地であった。今も北鎌倉を散策すると、随所に名残を見つけられる。
浮田定則
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