旭硝子や日本鋼管などそうそうたる企業が立ち並んでいた潮田地区。戦時中、産業道路には川崎大師から總持寺までをつなぐ路面電車が通るなど、交通の要の地でもあった。
だからこそ、終戦間際には度々爆撃の標的とされた。「産業道路からこちら側は火の海。潮田町一丁目、本町通二丁目・三丁目以外は全て焼け野原になった」。汐入町に先祖代々住み続けている椎橋満雄さん(88)は、1945年4月15日の空襲をそう回顧する。家は全焼し、命からがら大黒町へと避難した。
兄の遺体 バラバラに
21歳で兵隊検査を受け、徴兵された当時。8つ上の兄も、歩兵として3カ月中国で訓練した後、旭硝子の敷地内に駐屯していた7889部隊に配属された。
忘れもしない7月13日、B25が兵舎を爆撃。兄の命を奪っていった。遺体を見て思わず絶句したという。「バラバラでなんとか人間の形に整えていた。言葉がでなかった」。棒で取り繕われた無残な姿にただただ驚き、涙も出なかった。
兄の死後、21歳になった満雄さんにも兵隊検査の時が訪れた。「体は弱かったけど合格のハンコをもらった。基準なんてあってないようなものだった」。幸い戦地に赴く前に、終戦を迎えた。「兄のこともあったので、内心ほっとした」と明かす。
「もう戦争して欲しくない。何もない方がいい」。生きることに必死だったというあの時代を駆け抜けたからこそ、次世代に伝えたいことがある。「人任せにするのではなくて、何でも自分で率先して動いて」
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