焼け野原を歩いて
「家を焼け出され、食うものもなく、本当に極限の状態の中で生きていく。体験した一人として語り継がなくては」
潮田に生まれ、この地区の語り部の一人として活動する林正己さん(87)。地区センターや学校、依頼があれば出向いていく。持参する資料は、近隣の体験者の話を聞き取って集めた貴重な生の声の数々だ。「もう大分亡くなってしまった」
鶴見や川崎上空を200機のB29が覆い尽くした1945年4月15日、鶴見大空襲の日。国鉄に入社後すぐだった林さんは、浜川崎に勤務していた。
「空襲警報が鳴ったら町へ逃げる。そんな決まりがあった」。空襲の夜、逃げたあと、町から見た職場は燃えていたという。
工場には爆弾、町には発火性の薬剤が入った焼夷弾が降り注いだ。「一面焼け野原だったよ。家もなくなった」。浜川崎から歩いて帰る途中、近所の知り合いの遺体を見た。「大柄な人だったのに、小さく丸まっていた。人ってあんなになるんだと思った」。焼きついた光景をそう漏らす。
同年3月にあった東京大空襲後、父が現在の横浜商科大学付近の畑を買い、いつでも逃げられるようにと、ほったて小屋を作っていた。電気も水もなかったが、幸い、家族は全員無事だった。
◇ ◇ ◇
「アメリカと戦争したことを知らない子もいる」。体験者がだんだんと減る中、戦争を伝える意味は大きくなる。「戦争はやっちゃいけないこと」。貴重な声とともに、語り続ける。
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