矢向駅前には、一本の楠が立っている。1927年に南武線の開通記念に植えられた。今も繁茂し続けているが、1945年4月15日、駅の周辺は空襲で焼かれ、この楠も戦火に遭った。 駅近くに住み80年以上の光田俊雄さん(86)の記憶には、空襲で火の海になった町が今も刻まれている。
光田さんは4歳ごろ、父が勤める石川島播磨造船の社宅がある矢向へ移り住んできた。5人きょうだいの次男。戦時中、仕事のため父は中国、兄は台湾へ渡り、姉も父を手伝うため日本を離れた。光田さんは母親や弟のため、父親たちがいない間は男がやることの一切合財を引き受けていた。
駅前の店が爆発
その日、夜10時頃から空襲警報が鳴った。しばらくすると隣家の人から逃げるように呼びかけられ、操車場まで避難。「母と弟を連れ、布団をかぶり、火の海をくぐりぬけるように逃げていた」と振り返る。
自宅は幸いにも焼失を逃れたが、目と鼻の先にある矢向駅や国鉄の寮や売店などが焼けていた。空襲翌日にも、駅前の自転車屋に落ちた時限爆弾が爆発する騒動も起きた。第一京浜方面にはロータリーだった都町交差点で惨状が広がっていた。「黒焦げになった死体がゴロゴロしていた。むごたらしい状況で唖然とした」
光田さんは、戦時体験を文章にして矢向・江ヶ崎の歴史冊子に寄せるなどして、記録を残してきた。
「昔を知る人は少なくなってきている。二度と戦争なんてするものではないと後世へ伝えていきたい」と話していた。
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