「空が騒がしいな」。当時8歳だった黒川宏さん(81)が空を見上げると、爆撃機が弧を描いていた。1942年、黒川少年にとってそれが「戦争とふれあう第一弾だった」
関東配電(現在の東京電力)の事業所や新鶴見操車場が置かれ、戦時中は流通の拠点でもあった江ヶ崎町。44年には矢向国民学校が開校したが、爆撃の標的にされやすいとあってその年の8月に初等科の3年生から6年生は集団疎開で故郷を離れることとなった。
「寂しい気持ちはなく、ちょっとした遠足気分だった」。当時同校の5年生だった黒川さんは振り返る。疎開先は小田原市の桜井村。村長もお出ましの盛大な歓迎に、子どもながら驚いたという。
寂しさに涙する下級生
しかし、大変なのはそこからだった。「お腹がすいてしょうがなかった」。出てくる食事は少しの麦飯と味噌汁。食べ盛りの子どもにはとても足りなかった。
集団疎開に耐え切れず実家へと帰った下級生も。ある4年生の女の子は「父乗せた電車消えゆく枯野かな」と一句詠んだ。「よく心情を表しているよ」。俳句の先生をしていた父は時折指導に疎開先まで訪れ、母はおにぎりなどを作って持参してくれた。両親の愛情にふれていただけに、その女の子の気持ちは痛い程わかった。
家を焼かれ、空腹を耐えしのいで生き延びたおかげで、忍耐力は身についた。それでも「戦争は無駄なこと」と言い切った。
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